福島県新地町駒ヶ嶺字舘

 

別名:臥牛城

駒ヶ嶺城は、常磐線駒ヶ嶺駅の北西1kmに見える標高56mの山上にある。比高は40mほどで、南西から北東にのびる楕円形となっている。本郭を中心に、二ノ館、三ノ館、西館の四郭からなり、西から北西にかけてかなり深い二重堀がまわっている。内堀は各郭を囲み、これを土橋でつないでいる。二ノ館、本郭入口、及び西館との中間地、西館南端の四ヶ所に虎口がある。大手から本郭に向かおうとすると、進む向きを何度も変えなければならず、複数の枡形を経なければならない。比高はさほどではないが、かなり複雑な山城である。

永禄年間(1558~69)、相馬氏と伊達氏との対立時代に、伊達氏に備えて相馬盛胤が築いた。天正期には、伊達輝宗、政宗の攻撃が繰り返されるようになり、相馬氏は次第に圧迫されていった。そして天正17年(1589)、伊達政宗によって攻略された。このときの戦は、「四方より相囲みて取り詰められる。…二の曲輪を攻め取り…本丸許りに攻め破るといへども、岸高くして急に抜き難し」とあり、この城の堅固な様子がうかがえる。

政宗はここを国境の城として重視し、亘理美濃、黒木中務などの重臣を城代とした。近世に入ると、幕府は一国一城令を布告したが、伊達領内では多くの城を城ではなく「要害」という名称で存続していた。駒ヶ嶺城も要害として維持された。享保3年(1718)からは伊達一族の宮内主悦が城代となり、駒ヶ嶺、新地などに1400石(後に2000石)を領し、明治維新まで続いた。

幕末の戊辰戦争の際には、仙台藩の本営がここに置かれ、2千の兵が配置された。浜通りを北上する新政府軍は、7月13日に平城を攻略し、諸所で抵抗する仙台藩兵、相馬藩兵を撃破しながら列藩同盟軍を猛追した。相馬藩兵は善戦していたが、7月28日頃には相馬藩は新政府軍に寝返るとの情報が入り、仙台藩兵は相馬への備えもしながらの撤退になった。8月1日、仙台藩兵は一旦相馬中村城に入ったが、相馬中村藩の寝返りを恐れ、駒ヶ嶺城に入った。相馬中村藩は、8月6日の仙台藩からの使者にたいしては同盟側に留まることを確約したが、8月4日には、新政府軍に降伏の使者を送っていた。

8月7日には、相馬藩兵が先陣として駒ヶ嶺城に向かい、翌8日には駒ヶ嶺城下が戦場となった。仙台藩は、駒ヶ嶺に増援部隊を送り、新政府軍に切り込みなどをかけて善戦したが、旧式な装備はいかんともしがたく苦戦に陥り、城下は戦禍で焼失、8月11日駒ヶ嶺城も攻撃により炎上、落城した。16日、20日には駒ヶ嶺城の奪回作戦が行なわれたが失敗し、仙台藩部隊は壊滅、残兵は仙台に引き上げた。 その後仙台藩は降伏し、駒ヶ嶺城も廃城となった。

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