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福島県新地町駒ヶ嶺字荒屋敷

 

駒ヶ嶺城の南麓に、仙台藩士戊辰戦没之碑が立ち、その後ろにひっそりと戦死塚が立っている。この仙台領南端の地の駒ヶ嶺城には、仙台藩の本営が置かれていた。そのため、この城を巡って激戦が展開された。

仙台藩は、石田正親を総督として、2千の兵を配置し、相馬中村城の北西にある標高260mの旗巻峠にも鮎貝太郎平率いる1千200の兵を配置した。また相馬中村藩の降伏の動きを牽制するため、中村城北西2kmの黒木に一部兵力を集結させていた。しかし相馬中村藩の降伏と新政府軍入城は迅速であった。相馬中村藩は、8月6日の仙台藩からの使者にたいしては同盟側に留まることを確約したが、実際には8月4日には新政府軍に降伏の使者を送っていた。そして8月7日には、新政府軍は降伏したばかりの相馬中村藩に、黒木の攻撃を命じた。

黒木の仙台藩兵は、一時は相馬中村藩の攻撃を撃退したが、中村城から長州藩と徴兵隊が新手を繰り出し、仙台藩兵は支えきれず壊走した。新政府軍は確保した黒木に陣を置き、福岡藩と相馬中村藩兵が駒ヶ嶺の南麓に前進した。仙台藩兵は駒ヶ嶺を駆け下り、両藩を撃退したが、新政府軍の増援部隊が表れ、仙台藩兵は周囲の民家に火を放ちながら退却した。8月10日には、旗巻峠の仙台藩兵が出撃し、新政府軍を撹乱したが撃退された。

8月11日、新政府軍は駒ヶ嶺の攻略に乗り出した。駒ヶ嶺に砲撃可能な椎木の高台へ各藩の砲兵を集結させ、正面からは長州藩、熊本藩が、海岸沿いには福岡藩、鳥取藩、駒ヶ嶺西には徴兵隊と久留米藩を配し、それぞれに相馬中村藩を先導役として先陣に置き、三方から攻めあがる戦略を立てていた。

8月11日の午前6時、新政府軍は駒ヶ嶺城に向けて一斉に砲撃を開始、砲撃は命中精度が高く、関門の左大門、右大門とも瞬く間に打ち破られた。仙台藩も駒ヶ嶺北の高台から砲撃を返すが、駒ヶ嶺の砲の数は少なく、多くの仙台藩兵は塹壕に身を隠すしかなかった。

海岸線に沿って北上していた福岡藩と鳥取藩は、沼地に足を取られ進軍に手間取っているところを、今泉方面からの仙台藩の反撃を受け、一旦原釜へと引き上げた。駒ヶ嶺西側を進んでいた久留米藩と徴兵隊は、砲撃とともに菅谷に向けて攻めあがったが、これを迎え撃つ仙台藩兵によって進撃を阻まれ、これに対し津藩と相馬中村藩兵が救援に向かったが、それでも仙台藩兵は頑強に抵抗し、この方面の新政府軍は足止めを余儀なくされた。

正面から攻めあがった長州藩は、仙台藩の守りが手薄な曹善堂と駒ヶ嶺の間の高台に向けて攻勢を開始し、長州藩の練度の高い攻撃で仙台藩はあっけなく突破され、長州藩はこの高台を制圧した。そしてそれから東の駒ヶ嶺本陣を側面から直接攻撃を開始した。仙台藩は、予備隊を投入し混戦となったが、新政府軍の砲兵隊が白兵戦に加わり、仙台藩兵は次第に後退していった。

仙台藩は参謀の遠藤主悦が膝を打ち抜かれるなど、死傷者を多数出して退却を始めた。新政府軍はこれを追撃し、夕刻には目標としていた新地へ到達した。正面が突破されたため、海岸沿い、駒ヶ嶺西部の仙台藩兵も退却をし、新政府軍は駒ヶ嶺に兵を終結させた。

駒ヶ嶺を失った仙台藩は、駒ヶ嶺北の坂元に集結、8月16日奪還のため出撃した。旧幕軍の春日左衛門の指揮する陸軍隊6小隊も加わり、3千名となった仙台藩の戦力を3隊に分け、駒ヶ嶺、曹善堂、今泉を同時に攻めて新政府軍を釘付けにし、旗巻峠の仙台藩兵を新政府軍拠点の相馬中村城へ攻め込ませることを意図していた。

駒ヶ嶺を守っていた久留米藩は、仙台藩の襲撃を受けて苦境に陥った。殺到した仙台藩の2部隊は、駒ヶ嶺の番所を抜き、外郭を制圧、火を放ち、久留米藩兵の一部は潰走を始めた。しかし、折りしもの雨はこの頃には大雨となり、仙台藩の火縄銃、大砲を中心とした火力は激減した。雨の影響を受けない後装銃を用いた新政府軍はかろうじて陣地を維持、長州藩が駒ヶ嶺に増援に入り、岩国藩は西側を回り仙台藩の側面を突いた。さらに鳥取藩が到着し、これを機に久留米藩、長州藩は攻勢に移り、仙台藩は堪えきれずに潰走した。

8月20日、仙台藩3部隊が再度駒ヶ嶺城の奪還の為に前進を開始した。海岸沿いを進んだ部隊は、今泉の新政府軍へ向けて攻撃を開始、新政府軍の津藩は地の不利もあり防戦一方となった。しかし、大洲藩、長州藩が援軍を回し、仙台藩兵は今泉の攻略を諦め退却を始めた。新政府軍は後退する仙台藩兵を追撃し、また駒ヶ嶺からの増援部隊が仙台藩兵の退路を遮断したために、仙台藩兵は逃げ場を失い壊滅的な打撃を受けた。

駒ヶ嶺へと向かった仙台藩今井隊と旧幕府の陸軍隊は駒ヶ嶺の北方に展開した。旧幕府陸軍隊は、新政府軍の前哨陣地を一蹴し、仙台藩の部隊とともに駒ヶ嶺本陣へ向けて攻撃を開始した。しかしこの駒ヶ嶺本陣は、もっとも精強な長州藩が守っており、その防御を崩せないでいる間に、増援として岩国藩が加わわり、旧幕府陸軍隊と仙台藩今井隊のみでは攻略が不可能となっていた。しかし海岸線を進む部隊は壊滅し、西部の部隊も防戦一方となっており、増援は見込めず、両隊は駒ヶ嶺の攻略を断念して退却した。

この一連の戦いで、旗巻峠方面軍が派遣した部隊は2小隊のみだった。旗巻峠からアームストロング砲を砲撃しつつ、曹善堂方面に進出させたが、歩兵攻撃と連動するなどの効果的な運用は行われなかった。派遣された2小隊は、鳥取藩兵を後退させるなど奮戦したが、弾薬も尽き旗巻峠に引き返した。

この一連の戦いでの戦死者は、新政府軍がおよそ50名だったのし対して、仙台藩は170名を越えた。