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福島県いわき市好間町下好間字大館

 

岩城氏十六代岩城常朝によって築かれ、その後しばらくは岩崎氏の預かりとなっていたとも伝えられる。岩城氏はその居館を長友館(いわき市四倉)、白土城(いわき市平)と移し、十八代岩城隆忠はこの地方の統一支配を目指し、長子の岩城親隆と共に岩崎氏からこの大館城を奪った。さらに、親隆は北進して楢葉郡(現在の双葉郡南部)を治めた。

文明15年(1483)、二十代岩城常隆は、居城を白土城から大館城に移し、ここを本拠城としていわき統一をめざした。文明17年(1485)には常陸に進攻し守護の佐竹氏を服従させて常陸の北部を領有、次いでその子の盛隆は、永正7年(1510)、白河郡の領主白川家を攻略し、岩城氏は陸奥、下野、常陸の三国に強大な勢力圏を築いた。

しかしその後、伊達、相馬、佐竹、田村、石川ら周囲の諸勢力と対立、特に伊達氏の勢力が強くなると、岩城常隆は佐竹、葦名氏らとともに須賀川に出て伊達氏と対立した。しかし天正17年(1589)、摺上原の合戦で伊達政宗が葦名氏を破り、ついで二階堂氏を攻めた。白河結城氏、石川氏は伊達氏に帰属し、常隆も伊達政宗と講和し、南奥羽はほぼ伊達政宗によって統一された。

天正18年(1590)、常隆は小田原に参陣したが同年7月に急死し、その跡は豊臣秀吉の取りなしで、佐竹義重の弟貞隆が継ぎ、所領十三万石を認められた。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、岩城氏は佐竹氏、相馬市とともに中立を決め込み徳川方に味方しなかったため、慶長7年(1602)所領を没収され、この地には徳川家譜代の鳥居忠政が入った。鳥居氏は、新たに城の北東の物見ヶ岡に居城を築き移り、大館城は廃城となった。

その後岩城氏は元和2年(1616)の大坂の陣に参加し、その功により信濃国川中島で一万石を与えられ、さらにその後出羽国由利郡に二万石で移封され、子孫は明治維新に至った。

大館城跡は権現山の「千畳敷」を中心として、東西に長い尾根とその周辺に大小の郭を配している。登城路の東側斜面は比較的緩やかだが、残る三方は急斜面に囲まれている。北側の八幡小路との間は掘底道として利用されていたという。現在は地域の公園として整備されている。