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福島県いわき市平薄磯字宿崎

 

この灯台は、いわき市沿岸のほぼ中央にあり、地元では「豊間の灯台」と呼ばれ親しまれている。

この塩屋崎の近海は、昔からの航海の難所で岩場が多く、海が荒れたときは操船がむずかしく、漁民は困っていた。

平安時代に、都から来た僧がこの話を聞き、常夜灯を建てることにした。苦労の末、治安元年(1021)常夜灯は完成し、岩場の多い海を、夜も安全に船が通れるようになったが、この僧が亡くなると、常夜灯を守る人がいなくなった。江戸時代には狼煙台が置かれたが、安政2年(1855)に再び立派な常夜灯が建てられた。

この平安時代の常夜灯建設から834年後の明治32年(1899)、近代的なレンガ造りの灯台が塩屋崎に設置点灯された。完成当時の塩屋崎灯台は、レンガ造りとしては日本一高い大灯台だった。しかし、詳細な図面等の記録が残っていないため、幻の大灯台と呼ばれている。

初代の塩屋崎灯台は、昭和13年(1938)11月、福島県東方沖を震源とするマグニチュード7.7の地震で被害を受け、昭和15年(1940)に現在の鉄筋コンクリート造りの灯台に生まれ変わった。しかし昭和20年(1945)、太平洋戦争末期にはたびたび米軍の標的となり、飛行機や潜水艦よりの攻撃を受けて破壊され、灯台としての機能を喪失し灯台職員も殉職した。

戦後修復され再び灯台として灯をともし、昭和46年(1971)までは、職員が居住して保守点検にあたっていた。

現在も、福島県沿岸を航行する船舶の、重要な道標となっている。

昭和32年(1957)の大ヒット映画「喜びも悲しみも幾年月」の原作者の田中きよさんは、塩屋崎灯台の第20代灯台長の田中績(いさお)さんの奥さんで、この灯台に居住していた。きよさんは雑誌に「海を守る夫とともに20年」と題した手記を発表し、それが巨匠木下恵介監督の目にとまり映画になった。

映画の舞台は昭和7年(1932)から32年(1957)、主人公夫婦は、佐田啓治と高峰秀子が演じた。今のように自動化されていない当時の灯台は、住み込みの灯台守が毎日決まった時間に灯をともす。嵐が来たからといって休むわけにはいかないし、子供が生まれるときも、死んだときでさえ、灯台の灯を消すことは出来ない。

人里離れた岬の灯台に住み込み、他人との交流を絶たれ、我が子の死に目にも会えず、ただひたすら夫婦二人で顔をつきあわせる毎日。たった一回の見合いで結婚を決意した主人公夫婦は、作品の中で流れる25年の歳月の中で、ひたすら灯台の灯を守り、なくてはならないものの大切さと重みを、夫婦愛とともに描いた名作だ。ラストシーンは一人娘の結婚が決まり、その夫の勤務地のカイロに向かう船に向かって、夫婦は二人で灯をともす。

若山彰が歌った「おいら岬の 燈台守は 妻と二人で 沖行く船の ……」で始まる同名の主題歌も大ヒットした。