福島県いわき市常磐湯本町

 

開湯は古く 奈良時代であるとされる。傷を負った鶴を助けた2人の旅人が、数日後「この佐波古の御湯を開くべし」と書かれた巻物を受け取り開湯したのが始まりと伝えられている。古くは「三函(さはこ)の御湯」と呼ばれ、道後温泉、有馬温泉と共に日本三古湯に数えられ(異説あり)、歌枕にもなっている。鎌倉時代には、信濃御湯、名取御湯ともに三御湯とも言われた(異説あり)。

あかずして わかれしひとの すむさとは さはこのみゆる 山のあなたか (拾遺和歌集・詠み人知らず)

古くからこの温泉の効能は知られ、湯治目的で訪れる人が多く、また江戸時代には陸前浜街道の宿場町としても栄え、近郷近在から年間1万7千人から3万人の湯治客で賑わったと云う。またこの地には石炭の鉱脈があり、江戸以前から炭鉱が存在していた。明治時代に入り本格的な石炭採掘がはじまり、昭和になりさらに需要が拡大すると、「黒いダイヤ」として常磐炭田の炭鉱住宅が立ち並び町は栄えた。しかし坑内から温泉が多く出水し、大正8年(1919)には温泉の地表への湧出は止まってしまった。

その後炭鉱側との協議により昭和17年(1942)に温泉は復活することができたが、炭鉱が操業している間は湯量が十分ではなく、現在のように大量の湯を確保可能になったのは、昭和51年(1976)の炭鉱閉山後に炭鉱跡で源泉ボーリングを行ってからである。

1960年代になり「石炭から石油へ」とエネルギー事情が変わると、石炭採掘はコスト的に採算割れとなった。そのため鉱山から観光への転換が図られ、採鉱時に温泉が噴出していたことから、この地に「ハワイアンセンター」を建設するという話が持ち上がった。

このことで、炭鉱を守りたいという山の男たちと、街に生き残るための覚悟をしたハワイ組とが対立したが、炭鉱の斜陽化はいかんともしがたく、昭和41年(1966)には常磐ハワイアンセンターがオープンした。当時は珍しかった温泉プールやレジャー施設、その中でもフラダンスショーを目玉にした狙いは見事に成功し、常磐湯本温泉の名を一躍高めた。

これは、センター従業員、ダンサー、バンドメンバーには、炭鉱従業員とその家族を採用するなど、失業した炭鉱従業員、家族に雇用の場を与え、生活支援をするという側面もあった。この炭鉱から観光へのストーリーは「フラガール」という題名で映画化もされた。

現在では交通網の発達もあり、往年以上の繁栄を見せており、最近は、各旅館が温泉療養士を常置し、ドイツをモデルにした温泉療法を町ぐるみで推進している。

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