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福島県いわき市平字薬王寺台…松ヶ岡公園内

 

いわき市の桜の名所となっている松ヶ岡公園に、安藤信正の像がある。安藤信正は、磐城平藩の第五代藩主で、幕末に若年寄、次いで老中を務めた。

信正は、文政2年(1819)、安藤信由の嫡男として磐城平藩江戸藩邸で生まれた。安藤氏は徳川家の三河時代からの譜代の家臣で、江戸期に入り、幕政の要職を占めていた。弘化4年(1847)に父の死により家督を継ぎ、幕末の万延元年(1860)に老中となった。この直後、桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺され、幕政を取り仕切る事実上の最高権力者となった。

信正は、井伊直弼の強硬路線とは異なり、穏健政策を取ることで朝幕関係を深めていこうと考えていた。孝明天皇の妹の和宮と第十四代将軍の徳川家茂を結婚させるという公武合体を計りこれを実現させた。この時期、アメリカ公使館通訳のヒュースケン殺害事件などの問題が起こったが、信正は無難にこれを処理し、また金貨流出問題や物価高騰問題などに対しても防止政策を行うなど、幕末の政局安定化に努めた。

しかし、文久2年(1862)、江戸城の坂下門外で、和宮降嫁問題で恨みを抱いていた尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受け負傷した。しかしこの襲撃事件で、一部の幕閣から「背中に傷を受けるというのは武士の恥」と非難の声が上がり、女性問題などもあり老中を罷免された。

その後、隠居謹慎を命じられ平に戻っていたが、慶応4年(1868)に戊辰戦争が起きると。若年の藩主に代わって藩政を指揮、奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦ったが敗れ、居城の磐城平城は落城した。落城後は仙台藩に逃れたが、結局同盟軍は敗れ降伏し、信正も降伏、謹慎を余儀なくされた。

明治4年(1871)10月死去。享年52歳。