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福島県いわき市勿来町関田字長沢

 

福島県の太平洋岸には、古代・中世には「海道」あるいは「東海道」と言われる古代街道が通っていた。『続日本紀』に菊多郡の記述が見られ、719年には、石城国に「役家一十処」が新設された。菊多関(勿来関)はこのときにその名前が与えられたと思われる。

歴史的には白河の関(福島県白河)、念珠ケ関(山形県温海温泉)とならんで 「奥州三古関」と呼ばれ、奥州への入口だった。近世には奥州街道は白河の関、新潟から山形へ向かう北国街道は念珠の関、そして水戸から仙台に向かう浜街道の関所が勿来の関だった。現在でも茨城県と福島県の県境にあたり、関東と東北の境になっている。

平安時代初期、坂上田村麻呂の征夷軍の北上の時期における菊多関は、軍事的な面を強く持っていたようだが、その後、蝦夷地への進出が北に進むにつれ、その主体が白河関と山道にうつされ、10世紀の初め頃には勿来の関の軍事的役割は終わった。

勿来の関と言うのは、平安中期以後、歌枕として使われた呼称で、「来る勿れ」と言う意味で使われていることが多い。

「みるめ刈る 海人のゆきゝの 湊路に
勿来の関も わが据なくに」
小野小町、新勅撰和歌集

「惜しめども とまりもあへず 行く春を
勿来の山の 関もとめなむ」
紀貫之

「ほととぎす 勿来の関の なかりせば
君が寝覚めに ますぞ聞かまし」
藤原実方

この地には、源八幡太郎義家の伝説が多く伝えられており、前九年の役、後三年の役の折に、この地と関わったことが推測できる。
源義家、通称八幡太郎は、鎮守府将軍頼義の長男、父とともに永承6年(1051)より前九年の役に参戦、陸奥の安部貞任らを討ち、永保3年(1083)、後三年の役が勃発すると、陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ奥州を鎮定した。「天下第一武勇の士」と賞讃され、源氏武士の鑑とされた。その歌が千載集に一首残る。

「吹く風を なこその関と 思へども
道もせに散る 山桜かな」
源義家 千載集

またこの地には安部一族の伝承も残っており、朝廷勢力と蝦夷の勢力が接する場所で、まさに関東と陸奥の境の地であったと思われる。