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福島県南相馬市原町区中太田字舘腰…太田神社

 

別名:亀甲城

現在の相馬太田神社の地は、元亨3年(1323)、相馬重胤が下総相馬から陸奥に下向した際、最初に居館を定めた地。水田地帯の中にある直径50m、比高10mほどの独立丘である。地形から考え、この地は湿地帯で周囲を守られた館と考えられる。社殿のある場所は削平されており、西の端には物見台のような土壇があるが、これらが当時の遺構かどうかは定かではない。

別所館は、築城年代は定かでないが鎌倉幕府の御家人である三浦氏により築かれ、三浦義澄の末裔といわれる三浦左近国清が居していたと伝えられる。その後、源頼朝から陸奥国行方郡を与えられた相馬氏は、相馬師胤が行方郡を分知され奥州相馬氏の祖となり、元享3年(1323)に師胤の子重胤が、行方郡に下向して別所館を居館とした。

しかし手狭なため、3年後の嘉暦元年(1326)には堀内館に移った。この地は相馬氏の発祥の地として、その後相馬氏の氏神として下総から持ってきた太田神社が祀られた。相馬野馬追いは、この地から出陣する。

重胤の父の相馬師胤は、相馬氏の嫡流を巡り相馬胤氏らとたびたび争ったが破れ、師胤はその所領を重胤に譲り、重胤は陸奥に下向した。重胤は、小高城を築くなど勢力を広げ、陸奥相馬氏の祖となった。

鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政が成立すると重胤はそれに従ったが、のちに足利尊氏が台頭するとそれに味方し、南朝方の千葉氏や嫡流の下総相馬氏と対立した。子の親胤を尊氏の上京に従わせる一方で、次子の光胤を陸奥の守りにつかせ、自身は斯波家長と共に鎌倉の守備にあたったが、北畠顕家の攻撃を受け戦死した。