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福島県南相馬市原町区堤谷字根田

 

南相馬市の田村館は、田村清顕の後室の田村御前の館と伝えられる。

田村御前は(堤谷御前、於喜多御前、御北御前とも)は、小高城主相馬十四代顕胤の娘で、三春城主田村清顕に嫁いだ。清顕との間に男児は恵まれず、一人娘の愛(めご)姫を、米沢城主伊達輝宗の嫡男の政宗に嫁がせ、その間に生まれた男児を後嗣にしようとした。

天正14年(1586)、田村清顕が没すると、田村御前は、田村入道月斎ら重臣と計り、孫が生まれるまでは伊達家を頼り、田村御前が田村家を保つことに定った。ところが、この当時、伊達政宗の毒殺未遂事件が起こり、愛姫の乳母が疑われ殺害されたことから、愛姫と政宗は不和となり、これを聞いた田村御前は、伊達を頼るそれまでの考えを変え、実家の相馬氏と結ぼうとした。これにより田村家中は、伊達寄りの田村入道月斎らの伊達派と、田村御前を立てる相馬派とに二分された。

それまでは、田村清顕を紐帯とする姻戚関係で、一応安定していた相馬氏と伊達氏は、この田村支配をめぐり一気に緊張関係に入った。そして、天正16年(1588)、相馬派と伊達派との間で交戦があり、伊達派の田村入道月斎らは政宗に出馬を要請し、政宗は大森城に着陣した。一方、百目木に在陣していた相馬義胤は三春入城を試みたが、月斎らにより入城を阻止され、結果政宗が三春城に入った。政宗は、清顕の甥孫七郎宗顕を名代とし、田村御前は相馬領堤谷へ逃れ、この地に住まった。

その後田村御前は、慶長7年(1602)政宗に呼び寄せられ仙台に去り、御北御前と呼ばれ、元禄5年(1619)に没した。