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福島県南相馬市原町区泉字館の前

 

泉氏の祖の泉宮内太夫胤安は、相馬氏当主相馬五郎義胤の三男と伝えられている。元享3年(1323)、相馬重胤に従い下総より下向し、この地に館を構えて、相馬氏の行方経営に力を尽くした。

戦国末期には、泉胤政が居住し、3千余石を知行していた。慶長2年(1597)、主君の相馬義胤は、居城を小高城から牛越城に移すにあたり、胤政も人夫を出していたが、義胤と胤政の人夫奉行が口論となり、これに対し義胤は、胤政が「私曲」を企てたとして胤政追討の軍勢を泉館に発した。このため胤政は、館を焼き相馬を出奔、会津の柳津へ逃れた。義胤はこれに対し泉家を改易とし、この地は相馬氏一族の岡田氏に与えられた。

慶長7年(1602)の関が原の戦いに際して、相馬氏は西軍寄りの立場をとったことで、徳川家康は相馬氏を改易処分とした。この当時、上杉景勝に仕官していた泉胤政は、相馬家の危機を聞いて、相馬家帰参を景勝に願い出て許され、上杉家を退き相馬へ向かった。

その途中、相馬氏の安堵を求め江戸へ向かう途中の相馬義胤の嫡男蜜胤に会い帰参を願い出て、蟄居していた義胤のもとに出頭して帰参を許された。

江戸に出た蜜胤の活躍により、相馬氏はその旧領が安堵されることとなり、胤政も標葉郡泉田村に屋敷を与えられ相馬氏に復帰した。その後泉氏は、相馬中村藩御一家として、藩政の最高執政官である執権職に就く家柄として藩内で重んぜられた。