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福島県南相馬市鹿島区鹿島字町

 

 

福島県浜通りの双葉郡や行方郡には、かなり早い時期に大和朝廷の物部氏を中心とした勢力が入り、この地の 蝦夷を駆逐した。この時期にはまだ大和朝廷は確立しておらず、この地は半ば独立国状態だった。しかし、その後大和朝廷が確立すると、常陸鹿島からの大和朝廷の勢力と、それ以前に入っていた物部氏系の勢力がこの地周辺で戦い、古墳時代後期、この地でも大和朝廷の勢力が確立した。

南相馬市鹿島の鹿島御子神社は、武神の武甕槌命(たけいかずちのみこと)が東北地方平定の為に常陸鹿島からこの地に入り、その子天足別命(あまたりわけのみこと)をこの地に留めて賊徒の平定に当らせたことが始まりと云う。このことから、この地を鹿島と呼び、鹿島御子神社が創建されたと云う。

第十二代景行天皇のとき、(428頃)日本武尊(やまとたける)が東征の時、この鹿島御子神社に武運長久の祈願を行い、その霊験に依り、乱臣賊子を速やかに征服したと云う。その後、この地には行方軍団が編成され、奥羽各地の蝦夷に対することになる。

大同元年(806)、現在の地に社殿が造営され、その後も、磐城国行方郡に於ける延喜式内社八社の中の一としてこの地の歴代支配者の庇護を受けた。江戸期に入り、相馬義胤も篤く信仰し、社殿の修繕、祭典費の供進、神地献納などを行い、代々の相馬藩主も崇敬し明治に至る。

境内には、推定樹齢1千年の2本の大欅があり、「夫婦欅」と呼ばれ縁結びに御利益があると信仰されている。