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福島県南相馬市原町区泉字寺家前
この地の行方郡には、古くは「浮田国造」があり、物部氏系の大和朝廷勢力が入っていた。しかしその当時は、大和朝廷も未だ確立しておらず、半ば独立国状態だったようだ。しかしその後中央の大和朝廷が確立すると、この地には茨城等の北関東から大伴氏系が入り、この地でも大和朝廷の勢力が確立していった。
当時は多賀城はまだ造られておらず、この地が蝦夷征服の前線基地だったと考えられる。この地は朝廷軍の駐屯地となり、戦いに必要な武器を作るために、さかんに製鉄が行われた。泉官衙は、このような状況下で造られたものと考えられている。
泉官衙からは、金沢製鉄遺跡に通じる官道が作られ、大規模な製鉄が行われた。また、兵や技術者の食料として、当時この地方では米の栽培が未発達であったため、北関東からは大量の米が運びこまれた。泉官衙には中央の役人が置かれ、米を納める倉が造られ、鉄の生産を管理した。
その後、この地には1000人規模の行方軍団が編成され、多賀城の守備や各地の蝦夷制圧に出兵していたと考えられる。
調査の結果、この地の遺跡の範囲は、1.2haに及ぶ広大なもので、約60棟の掘立柱建築物跡が発見されている。また、八脚門を伴う板塀に区画された建物群も確認されており、付属寺院を持った行方郡衙役所跡と考えられている。また大量の瓦も出土しており、軒丸文様は花と草で構成されたもので、この文様はここだけのものである。一部の瓦には、赤い顔料が付着しており、赤い柱を持った瓦葺の壮大な建物があったと思われる。