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福島県相馬市中村北町

 

別名:馬陵城

梯郭式の平山城。南面には宇多川の流れを控え、天然の外堀としている。この水を引いて北面、東面に水堀が配されている。伊達家を意識し北と東を防御正面としている。戦時には堀を切って城の北側を一面の沼沢地にすることができた。また、東側には堀に囲まれた丸馬出しが存在する。城下町は城の東に発達、城下町特有のクランク状の道割が多く残る。石垣は本丸の周囲以外には少ししか見られず、ほとんどが土塁による城である。大小の土塁のほか西の二の丸跡に土塁の枡形虎口が確認できる。比較的小さな城でありながら効率よく曲輪が配置された城である。

平安時代初期の延暦二十年(801)坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に館を築き、家臣菅原敬実を置いて守らせたのが始まりと伝えられる。南北朝時代には、この宇多郡は結城氏の支配下にあり、南北朝時代の延元2年(1337)には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えた。しかし、南北朝の争いは北朝方が優勢に推移し、宇多郡は隣接する行方郡を支配していた北朝方の相馬氏の侵攻を受けるようになる。

天文13年(1544)に伊達に天文の乱が起き、相馬顕胤はこれを機に宇多郡を支配下に収めた。中村氏に代わって相馬盛胤が相馬地方に権勢を振るい、永禄6年(1563)次男の隆胤が入城した。相馬氏はさらに伊達領の伊具郡に侵攻し、伊達氏との争いは激化した。

伊達政宗の時代になり、相馬は次第に押し込まれ、隣接する新地城と駒ヶ嶺城は伊達勢により攻略され、相馬氏は一時存亡の危機に立たされた。しかし、豊臣秀吉の小田原城攻めに伊達政宗も小田原に参陣し、豊臣の総無事令により、相馬氏は滅亡の危機を脱することとなる。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにおいて、相馬氏は佐竹氏とともに西軍につくつもりではなかったかと疑われ、一時、改易になったが、慶長7年(1602)、伊達政宗などのとりなしにより (異説あり)改易になることは免れた。

慶長16年(1611年)、相馬義胤は本城を相馬中村城に移し、相馬藩6万石の藩庁とした。同年、相馬利胤はただちに近世城郭への改修を開始し、梯郭式の城郭が完成、天守も設けられた。しかし、寛文10年(1670)に落雷により天守を焼失し、以後、天守は再建されなかった。

明治維新により廃城となる。