福島県相馬市西山字表西山

 

 

二宮尊徳(たかのり)は、天明7年(1787)、相模国足柄上郡に百姓利右衛門の長男として生まれた。通称は金治郎(金次郎)。

14歳で父が死去、2年後には母も亡くなり、尊徳は伯父の家に預けられた。寝る間も惜しんで読書をし、油代がもったいないと叔父に指摘されると、荒地に菜種をまき、収穫した種を菜種油と交換しそれを燃やして勉学を続けた。伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどし、また、田植え後の田に捨てられている余った稲を集めて荒地に植えて耕し、米を収穫したりと収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功した。

生家の再興に成功すると、尊徳は地主経営を行いながら武家奉公人としても働いた。その内に、奉公先の小田原藩家老服部家でその才を見込まれ、服部家の財政建て直しを頼まれ、これを成功させて小田原藩内で名前が知られるようになった。

36歳のとき小田原藩に取り立てられて武士の身分になった尊徳は、小田原藩主大久保家の分家である宇津家の下野国桜町領の仕法を任せられた。その名声は上がり、東郷陣屋にあって天領の経営を行い、その方法は報徳仕法として他の範となった。その後、56歳のとき、老中水野忠邦に見いだされて幕府に登用された尊徳は、その2年後に日光神領を復興する幕命を受けた。しかし、志半ばにして70歳でその生涯を閉じた。

相馬では、天保4年(1833)からはじまった天保の大飢饉で、相馬中村藩は藩の存続自体が危うくなるほどの壊滅的なダメージを受けた。このとき、相馬藩六万石の実収入は、わずか457石にすぎなかったと伝えられている。

この天保年間、相馬藩士富田高慶は二宮尊徳に師事し、その「二宮仕法」を学び実践していた。富田は、藩に働きかけ、弘化2年(1845)、農政改革や質素、倹約、協働、互助、譲り合いなどを思想的な軸とする、「二宮仕法」の本格的な導入を決定した。これにより、相馬中村藩とその藩民の窮状は幕末に向けて急速に回復し、「二宮仕法」は廃藩置県後の明治期までつづけられた。

明治維新の直後、幕藩体制が崩壊する混乱の中、相馬中村藩は、二宮尊徳の恩に報いるため、孫にあたる二宮尊親一族を相馬家の国許へ招聘した。こうしたことにより、相馬中村地方の農政改革は「二宮仕法」をその理念として引き継がれていった。

この「二宮金次郎」は、明治37年(1904)以降、国定教科書に修身の象徴として取り上げられるようになり、また小学唱歌にも二宮金次郎という曲が取り上げられた。このようなこともあり、薪を背負いながら本を読んで歩く二宮少年像が多くの小学校に建てられるようになった。

しかし現在は、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることと、修身や道徳教育を懸念する者もおり、「二宮金次郎」の姿は学校現場から消えつつある。

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