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福島県福島市瀬上字宮代北口…泉性院

 

この銀杏の樹齢については定かではないが、天文24年(1555)の古文書に載っていることから、430年以上の古木である。

慶長6年(1601)4月、関ヶ原の戦いの後、伊達政宗は1万5千の大軍を率い、父祖の地である信達地方に侵攻し福島城をうかがった。茂庭、屋代、片倉の武将らを先陣とする伊達勢は摺上川を挟み上杉勢と対峙し、川を押し渡り、この瀬上宮代の地で上杉勢と激戦が行われた。伊達勢は、小田安芸らの上杉勢を破り前進して信夫山の中腹に陣を構え、前線は現在の陣場町まで進められた。

伊達勢は福島城を囲み猛攻を加えたが、猛将本庄繁長率いる上杉勢の城の守りは固く、伊達勢にも多くの犠牲が生じた。伊達勢は、一旦国見に軍を引くこととしたが、かつて信夫山の南側を流れていた松川あたりで、梁川城から出撃した上杉方の須田長義勢に後方の荷駄隊を攻撃された。さらに福島城の本庄繁長勢は城を打って出て伊達勢を後方から襲い、このため伊達勢は混乱した。

伊達政宗はこれに対するために、この銀杏の木に馬を繋ぎ、陣を構えて作戦を練ったと伝えられる。