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秋田県大館市川口字隼人岱

震災前取材

 

小林多喜二は、明治36年(1903)、父末松、母セキの次男として、現在JR下川沿駅のあるこの地で生まれた。家は貧しい自作農兼小作農だった。

4歳のとき、北海道小樽の伯父に呼ばれて、一家を挙げて小樽へ移住し、両親は伯父の経営するパン屋の支店を開いた。生活は豊かではなかったが、伯父の援助を受けて小樽高等商業学校(現小樽商科大学)へ進学、在学中から創作に親しみ文学活動に積極的に取り組んだ。この頃から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。

卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務、そのころ5歳年下の恋人田口タキに出会った。タキは父親が残した多額の借金により13才の頃飲み屋に売られ、酌婦として働いていた。多喜二は友人からの借金でタキを身請けし、結婚ではなく家族という形で実家に引き取った。多喜二の家族も暖かく迎えたが、タキは身分の差に悩みその後家出した。

昭和3年(1928)に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表、作品中の特別高等警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。翌 年に代表作『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集めた。しかし同時に、銀行は解雇され、特別高等警察からは要注意人物としてマークされ始めた。

当時は非合法だった日本共産党への資金援助の嫌疑で逮捕、その後も『蟹工船』の件で不敬罪や治安維持法違反などで逮捕起訴され、豊多摩刑務所に収容されたが、 昭和6年(1931)保釈後、日本共産党に入党、翌年から地下活動に入った。この自らの地下生活の体験を元に『党生活者』を執筆している。

しかし、昭和8年(1933)、共産青年同盟中央委員会に潜入していた特高警察のスパイの罠にかかり逮捕された。このときの取調べでは拷問が行われたようで、このときの拷問により死亡したとされる。その後警察署から病院に搬送され、死亡が確認された。警察は心臓麻痺による死と発表したが、多喜二の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。

戦後発表された「作家小林多喜二の死」によると、小林を寒中丸裸にして、握り太のステッキで暴行が加えられたとされる。しかし、どこの病院も特高警察を恐れて遺体の解剖を断った。死に顔は日本共産党の機関紙に掲載され、また同志により油絵で描き残され、またデスマスクも小樽文学館に現存している。『中央公論』編集部は、多喜二から預かっていた『党生活者』の原稿を『中央公論』に遺作として発表、3月15日には築地小劇場で多喜二の労農葬が執り行われた。30歳の若い死だった。