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秋田県大館市十二所

震災前取材

 

十二所城は米代川の左岸の比高約25mの丘陵上にある。浸食谷が複雑に入り組み、その谷を自然の堀として区画され、主郭、二の郭、三の郭の三郭からなる。

主郭は東西約60m、南北約100mで、二の郭は東西約100m、南北約30m、三の郭は東西約80m、南北約60mである。城域の南側にも谷が切れ込み、城域と丘陵部を分断している。

米代川沿いの峡谷に位置し、鹿角と比内の境目に位置することから、米代川の舟運と、川沿いの街道を守備、監視する役割をもっていたと考えられる。

築城時期など詳細は不明であるが、浅利氏が比内地方を支配下に置いたのは、16世紀初めに浅利則頼が甲斐から入部してからのことであることから、この時期の築城と考えられる。

この時期は、南部氏が鹿角から比内へ拡大しようとしている時期で、十二所城は浅利氏の鹿角方面への前線基地として築かれたものと思われる。記録には十二所信濃らが在城したとある。

天正11年(1583)、浅利勝頼が長岡城で(異説あり)安東愛季に謀殺されると、比内地方は安東氏の支配下に組み込まれた。愛季は五十目兵庫秀兼を大館城代として比内を支配させたが、秀兼は南部氏に内応し、天正17年(1589)、南部氏は比内に侵攻しこれを支配下に置いた。しかしその翌年、南部氏一族の九戸政実が乱を起こすと、安東実季は津軽の大浦為信と同盟し、再度比内を領有した。

慶長7年(1602)、安東(秋田)氏が常陸に移封になると、秋田には佐竹義宣が移封され、十二所城には塩谷伯耆義綱が城代として置かれた。このとき十二所城は大きく改修されたと思われ、それぞれの郭はすべて水堀または空堀がめぐり、また西方台地は本郭とは堀で仕切られ、そこには家中の武士が居住した。また台地北側の低地には城下町が作られ、その内町には給人武士が居住していたと云う。

しかし元和6年(1620)の一国一城令により城下に十二所代官所が置かれ、城は破却された。