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秋田県大館市字長走

震災前取材

 

矢立(やたて)峠は、秋田県大館市と青森県平川市の境にある峠である。標高は258mで、羽後と陸奥の国境でもある。旧羽州街道はこの地を通り、この峠は街道有数の難所でもあった。峠を青森県側に少し下ると津軽街道が合流し、交通の要衝でもあり、江戸時代には、弘前藩が陸奥側の碇ヶ関に関所を設置していた。

この国境の峠は、古くから争乱が絶えず、元慶4年(880)、大楯城の公家(きみけ)が、瞋関(いかりせき)の橘吉明を討ったとされ、兵を引き上げるとき、大杉の根元に弓一張、矢一双を立て奉納したことから矢立峠と呼ばれるようになり、かつてはその「矢立杉」もあったと伝えられる。

その後戦国期には、この地は、南部氏、津軽氏、安東氏の勢力の接点にもなっており、峠の南側にある陣場集落は、南部、津軽、安東氏が対陣したことからその名が生じたと云う。

江戸時代には、羽州街道として整備されたが、藩境の稜線では、秋田藩と津軽藩がそれぞれ自領を通るために街道は二股に分かれている。

江戸時代後期の文政4年(1821)、南部藩士の下斗米秀之進(相馬大作と変名)らがこの峠近くに待ち伏せ、参勤交代でこの地を通る弘前藩藩主の暗殺を企てた。これは、戦国期の津軽独立以来の確執によるもので、南部藩からすれば格下でなければならない津軽藩主の官位が、この時期に南部藩主よりも上位になったことによるものだった。

この事件は未遂に終わったが、当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立て、事件は講談や小説の題材として取り上げられ、その舞台となった「矢立峠」の名が広く知られるようになった。

いずれにしても、この峠は重要な幹線道路の難所であり、伊能忠敬、吉田松陰、イザベラバード、明治天皇などが足跡を残している。

現在は国道7号線が通り、峠越えの区間はバイパスが完成して供用を開始した。