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秋田県大館市字谷地町後…一心院

震災前取材

 

この一心院には、真田幸村父子の墓と伝えられる墓碑がある。

智将として名高い真田幸村は、定説では元和元年(1615)5月、大阪夏の陣の天王寺表の戦いで享年49歳で討死したとされている。嫡男の大助幸昌は、主君豊臣秀頼や淀の方等と共に、大坂城で自害、享年15歳だったと伝えられる。

しかしながら、幸村等は実は九州へ逃げのび、薩摩の島津家にかくまわれたという風説もあり、またその墓も多くの伝承とともに各所に残る。

この地に伝えられる話によれば、天王寺で討ち死にしたのは幸村の身代わりになった家臣の穴山小助であり、幸村ら一行は、島津義弘を頼って海路鹿児島に渡り、信濃の商人「信濃屋長左衛門」と称し、薩摩の南の頴娃(ええ)の地に隠れ住んでいた。しかし、頼りとした島津義弘が元和5年(1619)病没した後、幸村父子は全国を行脚、奥州恐山より弘前を通り、矢立峠を越えて寛永2年(1625)春、秋田佐竹藩大館の岩神を安住の地と定めた。

秋田佐竹家初代当主佐竹義宜の弟、佐竹宜家には、幸村の四女の御田姫が嫁いでおり、御田姫は夫宣家の協力を得て真田家の再興に尽力した。そのようなことから、幸村が生存していたとすると、秋田佐竹領に逃げ延びたと考えても不思議ではない。

その後はこの地で農耕に励み、また真田紐を商い生計を立てていたが、寛永18年(1641)、75歳で没しこの一心院に葬られた。長子大助は、初め「真田長左衛門幸昌」と称していたが、後に「信濃屋長左衛門」「信濃屋市兵衛」と改め、89歳の長寿を保ち、元禄15年(1702)に没し、幸村同様この一心院に葬られたとされる。

子孫の飯田家は、初め「信濃屋」を称していたが、天保年間(1830~44)に苗字帯刀を許され飯田氏を称した。飯田家には、古文書を初め、真田家の紋の「六連銭」が画かれた南京奈良茶碗等を秘蔵していると云う。

現在、境内に残る幸村父子の墓碑は、崩落して墓銘が読み取れなくなっているが、昭和28年(1953)、その隣に子孫の方が建てた「信濃屋長左衛門事真田左衛門佐幸村之墓」の墓碑がある。また一心院には、幸村父子の墓碑の他、関白豊臣秀次の娘だった妻の位牌も祀っていると云う。