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秋田県大館市花岡町

震災前取材

 

太平洋戦争末期に鉱山労働力が不足し、花岡川の改修工事などを請負っていた鹿島組は、昭和19年(1944)7月以降、中国人986人をこの地に移入した。過酷な労働条件の中、昭和20年(1945)6月までに、その内の137人が死亡した。

終戦間近の昭和20年(1945)6月30日、中国人労働者約800人は、国民党将校耿諄の指揮のもと蜂起し、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図った。中国人は近くの獅子ヶ森に篭ったが、警察、警防団などが出動し鎮圧した。捕らえられた中国人労働者は、鉱山の施設の共楽館前の広場に集められ、炎天下食事も与えられず二人一組に縛られ、順次共楽館で激しい尋問を受けた。この事件により中国人労働者ら419人が死亡した。

平成2年(1990)、生き残った耿諄は、責任はないとする鹿島組と争い、謝罪と賠償を求め裁判になったが、平成12年(2000)に和解が成立した。しかしその和解は、鹿島組の責任を確定的に認めたものではなく、またこの和解により、鹿島組が「花岡平和友好基金」として中国紅十字会に信託した5億円の一部は、被害者本人やその遺族に支払われたが、その基金の多くは不明となっていると云う。