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秋田県由利本荘市東由利蔵字岩館

2017/05/11取材

 

別名:岩館

蔵集落の南方に位置する比高10m程度の段丘上に存在する。高瀬川が岩館地区を取り囲むように大きく蛇行し、要害の地となっている。居館部分である内館の東側に水堀を擁し、土橋によって主郭へと続いている。館の規模は東西約180m、南北約130mほどの単郭で、中央部には諏訪神社が鎮座しており、周囲には土塁痕が見られる。南西側には高瀬川が流れ、緩やかな斜面に空堀を擁している。現在、内館跡は諏訪神社境内となっており、堀跡や土橋などの遺構が残る。

下村館は由利十二頭の一人である下村氏の居館である。正和年間(1312~17)、大井氏の一族が信濃より由利郡に入部し、下村氏を称したものと思われる。室町時代に入り、応仁年間(1467~69)頃に下村彦次郎宗長が下村館を築いたとされる。

由利十二頭は、それぞれが独立を保持し、いわば地方豪族として戦国期に入った。戦国期には周囲を安東氏、小野寺氏、戸沢氏などの大勢力に囲まれ、その時々で相争いながらも一揆を組み、勢力を維持していた。

天文年間(1532~54)から天正年間(1573~93)にかけては下村蔵人秀長・奥長の父子が館主であった。奥長は元亀3年(1572)、石沢館の石沢氏と大琴山の高館において合戦に及び、天正10年(1582)に小野寺氏と由利勢が戦った大沢山合戦にも、由利十二頭の一人として参陣している。

豊臣秀吉の天下統一に際しては、天正18年(1591)、由利十二頭は由利衆として、仁賀保氏、赤尾津氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏、石沢氏、禰々井氏とともに、それぞれ知行を安堵された。由利衆は、豊臣政権により安東実季のもと材木切り出し及び廻漕の軍役を負担させられた。また天正19年(1591)の九戸政実の乱にも出陣した。

しかし豊臣秀吉の奥州仕置に対しては、由利十二頭の利害関係が複雑なこの地域では、その処遇に対して様々な不満が生じたと考えられ、文禄4年(1595)、下村氏は鮎川氏・石沢氏・潟保氏・玉米氏らと共に所領没収となり、館は他の由利郡の諸館と共に破却された。慶長3年(1598)、下村氏と玉米氏の残党は、秀吉の命で検地を行った大谷形部吉継に反抗し、この館に1,000人が立て籠もった。しかし同じ由利勢である赤尾津氏、鮎川氏、潟保氏らに攻められ、下村氏、玉米氏らは滅亡した。