秋田県由利本荘市岩城内道川

2015/08/25取材

 

この道川海岸の地は、日本のロケットの黎明期に、東京大学生産技術研究所のロケット発射実験施設があった地である。

東大生研の糸川英夫博士を中心として研究が始まったペンシルロケットは、昭和39年(1955)、水平発射実験に成功した。その後も水平発射実験を継続した後、上空へ向けての発射実験が行われることとなった。

当時の海岸は米軍の管理下にあり、発射場として利用可能な場所は日本海側の限られた場所しかなかった。また、船舶や航空機の航路を避けること、漁業への影響が少ないことも求められ、海岸が十分に広く、実験班の宿泊の便が良いことなどから、この道川海岸に、日本で最初のロケット発射場「秋田ロケット実験場」が開設された。

上空への打ち上げにあたっては、軌道を光学追跡するために四塩化チタンの発煙剤を搭載、このために全長が300mmに延長された「ペンシル300」が用いられた。

秋田ロケット実験場での最初の飛翔実験は、昭和30年(1955)8月6日に実施された。全長が300mmの「ペンシル300」で行われた。この発射実験は、カウントダウンゼロの瞬間にロケットが発射台から転げ落ち、そのまま点火されたロケットが砂浜上を這いずり回るという、今となっては笑い話のような失敗だった。急遽ロケットの固定方法を改良し、この日の内に2回目の発射実験を行い、ロケットは到達高度600m、水平距離700m、飛翔時間16.8秒で成功した。

その後、8月23日からは、全長1.2m、直径80mm、2段式の「ベビーロケット」の発射実験が開始され、同年12月までに計13機が打ち上げられた。到達高度は6kmだった。

昭和32年(1957)から翌年にかけての国際地球観測年に日本が参加を表明したことから、昭和31年(1956)、当時の文部省は大気圏上層観測のために高度100kmまで到達可能なロケットの開発を糸川博士に打診、本格的な観測用ロケット「カッパロケット」の開発に着手し、同年9月24日、K-1型の発射実験が行われ、到達高度は10kmに達した。

その後もより高い宇宙を目指し改良が続けられたカッパロケットは、昭和35年(1960)にはK-8型が高度200kmまで達するようになった。しかしこのまま飛行高度が上がると、機体が日本海を越えて大陸に落下する恐れが出てきた。また、李承晩ラインが存在していた当時、韓国側海上に落下することがあっても問題となりかねなかった。このため、太平洋側に新しい実験場を建設することとなり、現在の鹿児島県肝付町の内之浦に移設することになった。

新実験場の建設が決まった後も、この地での実験は続けられたが、昭和37年(1962)5月24日夜、K-8型が打ち上げ直後に爆発、周囲を巻き込んで火災を発生させる事故が起こった。死傷者は出なかったが、事故を機に地元の協力が得られなくなり、また安全対策にかかる費用の問題もあり、この地での発射実験は全て中止されることになった。

その後の昭和40年(1965)の5月と9月に、航空宇宙技術研究所が基礎データ取得を目的としてNAL-7ロケット計14機の打ち上げ実験を行い、これが秋田ロケット実験場で実施された最後の打ち上げ実験となった。

現在の秋田ロケット実験場跡地には、当時の施設類はすべて撤去されており、「日本ロケット発祥記念之碑」のみが、この地が日本の宇宙開発黎明期の舞台であったことを伝えている。

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