秋田県潟上市昭和槻木

2015/08/28取材

 

秋田での石油開発の始まりは明治6年頃(1873頃)からで、手掘りや上総掘りで始められた。本格的な開発は、綱式採掘機械が導入された明治35年(1902)以降であり、日本石油による旭川油田の発見に始まる。明治末から大正初めに豊川油田、黒川油田及び八橋油田と開発・発見が続き、新潟県の生産量を上回るようになった。

豊川油田は、明治15年(1882)から石油開発の探査が進められ、大正2年(1913)油田の出油に成功し、その後次々に油井を増やし、大正10年頃(1921頃)には、年間86,800㎘を産油し、掘られた油井の数は718本と有数の油田地帯となった。

しかしその後は産油量は次第に減少し、昭和41年(1966)、この地でわずかに産出する天然ガスを、秋田市営ガスに販売するのみとなっている。

この豊川油田の特徴は天然アスファルトにある。

4500年前から3000年前の先史時代、天然アスファルトは、ひび割れ補修、接着、コーティングに使用されていた。当時は土器や土偶の割れ目、石器の接続部分の接着に利用されている。天然アスファルトは縄文時代の生活において貴重品として扱われ、北海道から関東地方まで広く分布している。この天然アスファルト供給の最有力な地域の一つがこの豊川油田だったと考えられている。

しかし縄文時代以降は歴史から天然アスファルト利用の記録は消え、再び現れたのは江戸時代後期になってからである。

文政元年頃(1818頃)、秋田の黒沢利八は土油(土歴青)から灯火用の油を製造し、灯火用に適しない残り物を使って油煙墨を作り、佐竹藩主に献上し、藩から油煙製造の許可をもらった。油煙墨は、墨以外にも染料や塗料として利用されたといわれる。その後製造法の改良を進め、年間3トンの生産量に達し、秋田久保田藩と交渉し事業の独占権を得た。

しかし、天然アスファルト(土瀝青)の新たな産業への応用は明治に入るまで大きな動きはなかった。明治5年(1972)、欧州を岩倉具視等と共に視察した東京府の知事由利公正は、ロンドンでアスファルト舗装の状況を視察した。由利は明治11年()、豊川の黒澤利八から土瀝青の原鉱2百俵購入し、東京神田の昌平橋で規模の小さい日本で初めてのアスファルト舗装を実施し、アスファルト舗装事業の普及を行った。

土瀝青の採掘と精製が最も活況を呈したのは明治30年代中頃以降だった。当時は、原鉱を掘る人夫達が狭い地域に集中し、体と体が触れ合って身動きが出来ない程で、掘った原鉱をモッコに入れて運ぶものなど、人の右往左往する有様は、ありが獲物を持ってウロウロする姿に似て活況を呈した、と記録されている。

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