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秋田県秋田市豊岩小山

2016/07/27取材

 

別名:勘九郎の地蔵様

小山の地蔵様は、むかし修験であった志賀家の私社で、将軍地蔵を祀っている。志賀家の祖である勘九郎が霊夢により、文政年間(1818~30)に、小山の墓地にあった地蔵を現在地に遷座したのが 始まりである。

江戸時代の後期、この小山村にある五左衛門という家に、正月の元日の朝、男の子が生れた。 その子は勘九郎と名づけられすくすくと育ったが、他の村の子どもたちとは違い一風変わっていた。幼いころから他の子供たちと遊ぶことはなく、親や村人たちにかくれ墓地に出かけては、そこにあった地蔵堂に入り、地蔵様を相手にして、まるで友達とでも遊んでいるように話しかけたり、笑ったりしていた。小遣いをもらっても、ローソクを買ったり、お供物を持ったりして地蔵堂に出かていた。そのため村人たちは皆、勘九郎を気味悪がり見て見ぬふりをしていた。

ある晩、地蔵様が勘九郎の夢枕に現れ、ひとつの珠を勘九郎に与えた。その珠は、地蔵尊の左手に捧げた宝珠と同じものだった。あるとき、村人たちは勘九郎を馬鹿にして気違い扱いし、「おまえが地蔵尊を背負えるなら、これから授けてやるぞ」とあざ笑った。すると幼い勘九郎は地蔵様に近づき背を向けると、大人でも重い地蔵様が勘九郎の背におおいかぶさるように乗り、勘九郎は軽々と歩いた。驚いた村人たちは勘九郎を「地蔵様の申し子」と呼ぶようになり、それ以来、勘九郎はいろいろな霊験を現わすようになった。

あるとき佐竹の殿様が、仁井田のニツ屋潟に遊漁に来たが、何回網を入れても魚は一ぴきも捕れなかった。殿様は大変不機嫌になり、あわてた側近の家来たちが勘九郎をつれて来て占わせることにし、早馬を走らせた。召し出された勘九郎は、殿様の前に参上し、網を入れる場所を示し、網に入る鯉鮒の数を予言した。不思議なことに、何回網を入れても魚の数は勘九郎の予言通りだった。殿様は大いに喜び、その霊力に感じ入り、勘九郎に土地を与えてほめ称えた。

この噂はたちまち広がり、漁労の神として、漁師はもちろん魚問屋などの尊崇を受けるようになった。地蔵堂には参詣人があふれ崇敬者が多くなったことから、時の郡奉行は勘九郎のため一宇を建てて地蔵尊を遷座し祀った。勘九郎は亀田の殿様のために雨乞いをして恵みの雨を降らせたり、本荘の殿様の死の病と言われた難病を治したり、下は百姓町人に至るまで勘九郎の霊験によつて救われた。

その名声は遠く他領にもおよび、信仰する人々が大いにふえたと云う。