秋田県秋田市下浜羽川字滝ノ鼻

2016/07/26取材

 

別名:韮山館

羽川新館は、羽川氏の菩提寺である朱林寺の南東400mほどの比高約70mの丘陵上にある。郭は南北に長く配され、大きく北郭、本郭、南郭に分けられる。北側が大手口と思われ、北郭には城塁が見られ、また竪堀が残っている。本郭は長軸約60mほどで、西側に土塁が残っている。また奥には南郭が配され空堀で区画されている。この城は韮山館とも呼ばれ、義稙が敵が滑りやすいように、土塁にニラを植えたためと伝えられる。

由利十二頭の一人の羽川氏の居城である。羽川氏は新田義貞の系譜にみられる羽川修理太夫の子孫とされ、応永年間(1394~1428)の頃、越後から由利郡に流れついたと伝えられる。当初は羽川古館を居館としていたが、後にこの地に移った。築城時期など詳細は定かではないが、 天正年間(1573~93)の頃の館主は羽川小太郎義稙とされる。

羽川氏の周囲は、安東氏、小野寺氏、戸沢氏などの大勢力に囲まれていたが、清和源氏の血統という自負からか、周辺勢力は皆「悪賊」という思いがあったのだろう。所領以上の家臣を入れ、周辺の他国領に攻め入った。しかしその方法は、一般の住民や旅人からの略奪で、野盗、盗賊と変わることはなかった。

天正13年(1586)、羽川氏の領内に、前田利家に敗れた能登の畠山氏の一族が漂着した。義稙はこれを助け家臣とし、勢力を拡大しますます略奪に精を出した。

天正16年(1589)、小野寺氏の所領を襲った際に、小野寺氏を「悪賊」として、小野寺領の神宮寺八幡宮に「悪賊州県を討つ」との願文を奉納した。これは「凶徒が多くあり、自らの所領を増やすことばかりで、清和源氏の血統の自分が、これらの悪族をみな討伐する」というもので、小野寺義道を激怒させた。この年の安東氏と小野寺氏との合戦では、義稙は安東氏に味方して、70人の兵を率い小野寺氏の陣に夜襲を仕掛け、陣屋をさんざんに焼き払い有名を馳せた。

安東氏の内紛である湊合戦の際には、義稙は安東実季につき、豊島重氏を討ち豊島城主となり、さらに戸沢氏領の大曲を狙っていた。その義稙に、同じ由利十二頭の赤尾津九郎が計略をもって近づき、戸沢氏は稗沢勢の侵攻に兵力を集中させており、大曲の守りは全く手薄になっていると耳打ちした。これを聞いた義稙は、さっそく1000人ほどを率いて大曲に押し寄せたが、戸沢氏は羽川勢を迎え撃つ準備を整えており、楢岡においてさんざんに打ち破った。またそれと同時に、赤尾津九郎は2000の兵で、わずかな留守兵だけの羽川氏の本拠城のこの城に攻め寄せ、城はあっという間に落城した。

羽川勢は戦に敗れ、帰る城も失い、山野に潜伏して雪辱を期したがその機会は得られず、一族の多くは帰農したという。義稙は仙北まで放浪し、浪々中に没したという。

その後、赤尾津九郎はこの城に入り、名を羽川主膳正九郎と改めて仁賀保城の支城にした。

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