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秋田県男鹿市船川港本山門前字祓川

震災前取材

 

この五社堂に祀られている赤神は、漢の孝武帝と伝えられる。中央の堂に主神として赤神が祀られていることから、赤神神社と称されるようになった。

伝承によると、景行天皇2年(72)、日本武尊が白鳥になり漢に武帝を迎えに行った。景行天皇10年(80)、武帝は白い鹿がひく飛車に乗り、赤旗を立てて、仙女の西王母を伴いこの地に降りた。このとき、五匹の鬼が五色の蝙蝠となりこれに従ってきた。

この時期に、朝廷は武内宿禰を北陸道に遣わし視察させていたが、宿禰はこの地の神異を知り朝廷に知らせ、朝廷は皇女を遣わし、皇女は宿禰とともにこれを赤神としてこの地に祀った。皇女は後に赤木大明神として祀られた。

五匹の蝙蝠は男鹿に着くと再び鬼の姿に戻った。鬼は、「眉間」「逆頬」「眼光鬼」「首人鬼」「押領鬼」といい、眉間と逆頬は父母で、眼光鬼、首人鬼、押領鬼はその子だった。父母の鬼はやがて死んだが、子の三匹の鬼は死ぬことなく、武帝が没するまでの間の150年以上この地の岩窟に住んだという。

しばらく後に、能閑大師がこの山に薬師如来に従い空中を飛行する鬼神である十二神将をたてた。また延暦3年(784)に赤神は日光山に勧請され、延暦7年(788)には、後漢最後の皇帝献帝の血をひく伝教大師により叡山に勧請された。

貞観2年(860)には慈覚大師が武帝飛来の図を描きご神体とし、智人上人のドクロから小さな薬師像をつくり、瑠璃の箱に入れ石の宝蔵にしまい山頂の赤神社に安置した。この時期から、神は仏が姿を変えて日本に現れたものいう考えが入れられ、赤神権現は薬師如来、赤木明神は不動明王、眼光鬼は普賢菩薩、首人鬼は文殊菩薩、押領鬼は阿弥陀如来とされ神仏混交となっていく。

その後、安倍氏、清原氏、藤原氏とこの地の歴代の領主から庇護を受け、鎌倉時代の建保4年(1216)には、別当円転が霊夢を見て鎌倉の右大臣源実朝に請願、実朝は円転に命じて叡山山麓の山王上七社を勧請したが、後に二社が廃れ五社に配祀され五社堂となったと云う。現存の五棟の社殿は宝永7年(1710)に建てられたもので、向拝、屋根、柱、組み物などに珍しい工夫がみられる。