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秋田県男鹿市北浦真山字水喰沢

震災前取材

 

崇神天皇10年(前88)、崇神天皇は4人の将軍を各地に派遣した。北陸道には大彦命が遣わされ、命は北陸道の人々を帰順させることに成功した。その後、人皇十二代景行天皇25年(95)、武内宿禰が北陸北方諸国の民情調査を命じられ、この男鹿の地に至り、湧出山(現在の真山)に登り、国家安泰と武運長久を祈願したのが 真山(しんざん)神社の初めとされる。

平安初期、仏教が東北にも伝播し、貞観2年(860)慈覚大師によって男鹿山は二分され、北は真山、南は本山と称するようになった。真山には、天台宗の守護神である赤山明神が真山の主神として祀られ、神仏習合の山となり修験者の道場となった。

その後この地の支配は、橘氏、安東氏、佐竹氏と変わったが、真山神社は歴代の領主から崇敬を集め、社殿の造営、修理、神領の寄進等があった。特に佐竹氏は社領を寄進し、武運長久の祈願所として厚く信仰した。

また海の神としても、この地方の漁師はもとより、日本海を通る船人達の多くが詣で、海上安全、大漁、海運倍々を祈願するなど広範囲の人々に信仰された。

明治の神仏分離令により、仏教色を改め、名も赤神山神社から真山神社と改め、明治14年(1881)県社に列せられた。現在の社殿は昭和34年(1959)に竣工したものである。

真山神社の特異な神事として、柴灯祭(せどまつり)、なまはげ行事がある。柴灯祭とは、正月の三日、境内に柴灯を焚きこの火によってあぶられた大餅をお山の神に献ずる祭儀で、この餅を受けとる為に下山するなまはげは、この神の使者「神鬼」の化身といわれている。鬼に献じられた餅は護摩餅と称され災難除去の御護符として氏子参詣者に配られる。

なまはげは集落の若者たちが面をつけて藁で編んだケデを身にまとい、「泣ぐ子いねが。怠け者いねが。言うごど聞がね子どらいねが。親の面倒見悪り嫁いねが。ウォーウォー」と威厳のある所作で氏子各家をまわり、新しい年の幸福を祈る行事である。

「なまはげ」の語義は「ナモミハギ」であると云い、冬に炉辺にばかり居るなまけ者の膝にできる火形(ナモミ)を剥ぎ取りこらしめることからきているとされ、持っている大出刃はナモミを剥ぎ取る為、手桶はそれを入れる為のものであると云う。平安時代以降に仏教文化を築いた修験者の創案と言われている。