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秋田県横手市杉沢字谷地中

震災前取材

 

清原真衡の後継問題などから、一族間の争いが生じ、これが後三年の役へと発展していく。真衡の死後、陸奥守源義家の裁定により、内紛は一時終息したが、清原家衡はそれを不服とし、叔父の武衡と結び、応徳3年(1086)、清衡の館を攻撃し、清衡の妻子一族はすべて殺された。

このため、清原清衡は源義家の助力を得て、金沢柵に篭る家衡、武衡を攻めた。金沢柵は堅城であることから攻めあぐね、固く囲み兵糧攻めにした。これにより柵内の士気は低下し、このため家衡の家臣の藤原千任が、義家に向かい、前九年の役の際に清原氏の助力により勝利した恩を忘れた者としてののしった。

このため、いよいよ糧食も尽きた金沢柵から、武衡が義家の弟義光に降伏を申し出たが義家は許さず、ついに糧食の尽きた家衡、武衡軍は、金沢柵に火を付けて敗走した。武衡は、柵近くのこの蛭藻沼に、刀の鞘の尻を切って口に当てて沈み潜んでいたところを捕らえられた。

源義光は、降人を助けるのは古今の例と助命嘆願したが、義家は安倍宗任のように自首する場合を降人と言うべきで、武衡は違うとして斬首した。その後義家は、柵内から義家やその父の頼義をののしった藤原千任の歯を金箸で折り、舌を切った上で木の枝に吊し、足下に武衡の首を置き、千任が疲れて首を踏むと「二年の愁眉今日すでにひらけぬ」と喜んだという。