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秋田県横手市新坂町

震災前取材

 

大鳥井柵は、比高約20mの小吉山、大鳥井山の2つの小独立丘陵上にある。

柵は調査の結果、土塁と空堀が二重に巡り、当時としては極めて高い防御性を有する柵である。外側の空堀には土橋が設けられ、二重の空堀の内側の居住域の外縁には柵列が設けられ、柵に沿って物見櫓と考えられる小規模な建物や、掘立柱建物跡や、竪穴住居跡などが作られていた。

この柵は、平安時代の永承、天喜年間(1046-58)、清原光頼、頼遠の父子が築城したと伝えられる。

前九年の役の結果、奥羽一帯を支配した清原一族は、その後内紛を生じ、源義家の介入により後三年の役へと発展し、横手盆地一帯に戦火が広がった。この大鳥井柵は清原家衡が拠点とした金沢柵と共に焼失し、源義家、清原清衡連合軍に敗れ一族は滅亡した。

その後、清衡は藤原清衡と名前を戻し平泉から奥羽の地を支配し、寛治元年(1087)、清衡の三男の正衡が城柵を修築し関根柵と呼ばれた。

出土遺物は、10世紀後半~12世紀代のもので、清原氏から藤原氏の時代にかけて使用され、平泉藤原氏の滅亡により廃城になったものと思われる。

中世から近世にかけては、この地は宗教的な対象となったようで、十三塚が築かれ、頂部の主郭跡の平場には、延宝7年(1679)、小野寺氏時代の城門の部材で大鳥井山神社が建立された。