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秋田県横手市城山町

震災前取材

 

別名:韮城、朝倉城

横手城は羽州街道と秋田街道の交わる交通の要衝にあり、西は横手川、北は明永沼、東は奥羽山脈を天然の要害とした朝倉山に築かれている。現在、秋田神社のあるところが本丸であり、その西側に二の丸が配されている。

城は石垣を用いず、土塁と切岸による山城で、斜面には土崩れを防ぐ土止めと敵が這い登ることができないように韮を植えたとされ、韮城とも呼称された。本丸跡、二の丸跡、武者留、大手門跡、七曲りなどが横手市指定文化財となっている。

昭和40年(1965)、郷土資料館と展望台をかねて二の丸跡に模擬天守が建設され、現在は公園として整備されている。

横手城の築城時期は諸説あるが、鎌倉時代の正安2年(1300)、小野寺道有が築城したと伝えられる。小野寺氏は、文治5年(1189)、源頼朝の奥州征伐の功により出羽国雄勝郡の地頭職に補任され、小野寺道有のころには、雄勝、仙北、平鹿の三郡を支配していた。その後、応仁元年(1467)頃には、稲庭城の小野寺氏重臣の横手道前が居城としたとされる。

室町期になると、小野寺氏は仙北屋形と称され最上地方にまで勢力を伸ばしたが、天文21年(1552)、小野寺稙道は、横手城城主の横手佐渡守光盛らの謀反に遭い、湯沢の湯沢城で討死した。嫡男の四郎丸はこれを逃れ、山形県庄内の大宝寺氏に保護され、弘治元年(1555)大宝寺氏の援軍を受けて横手佐渡守らを討ち、横手城を回復した。

輝道はその後横手城を本拠とし、戦国大名として発展、最上氏や戸沢氏、秋田氏らと激しい抗争を繰り返した。天文23年(1554)頃、横手城はこの輝道、義道により改修整備された。

天正18年(1590)、義道は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣したが、その後の上杉景勝の検地に対して「仙北検地騒動」が起こった。この騒動により、小野寺氏は所領の一部が削られ三万石のみが安堵され、旧領の雄勝郡は山形の最上義光に宛がわれた。このことから、小野寺氏はその後も最上氏と幾度も争うことになった。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、義道はこれを所領回復の好機と捉え、徳川家康の出陣要請を無視し、東軍の最上氏の所領に侵攻した。しかし関ヶ原の戦いが早期に決着したことでその目論見も外れ改易となり、慶長6年(1601)石見国津和野に流罪となった。

慶長7年(1602)、秋田に佐竹義宣が転封され、横手城は佐竹氏の支配下となり、城代として国分盛重、続いて須田盛秀が入り、寛文12年(1672)には佐竹氏一門の戸村義連が入城し、以降代々明治まで続いた。一国一城令により久保田藩領の支城の多くは破却されたが、横手城を重要な拠点と考えた佐竹義宣の幕府への働きかけにより破却を免れた。

慶応4年(1868)戊辰戦争の際には、佐竹氏は奥羽越列藩同盟を脱盟し新政府軍側につき、秋田は東北における新政府軍の拠点となった。このため、仙台藩と庄内藩の軍勢が横手城に攻め寄せ、19歳の城代戸村義得は篭城し抵抗したが、砲火によって城は炎上し、同年8月11日落城した。

明治4年(1871)廃城、明治12年(1879)に、戊辰戦争で戦死した22人の霊を慰めるため焼け残った城の資材を利用して本丸跡に秋田神社が建立された。