秋田県横手市増田町増田

2013/08/19取材

 

この真人公園は、真人山山麓に開かれた公園である。その名は、前九年の役の立役者である清原真人武則に由来するとされる。真人山を背景に、苑池の周りには、桜、梅、アヤメ、ツツジ、リンゴが植えられており、県内屈指の桜の名所として日本さくら名所100選に選定されている。

この地一帯は、前九年の役で朝廷側について勝利を得た、清原武則の居館があった地と伝えられており、この地を訪れた紀行家の菅江真澄も、「増田なる真戸山は真人山にて清原真人武則の居城跡なりつるよしを云ひ」と書いている。

この地は、陸奥への通路小安越、手倉越両道の要衝に当たり、背後は重畳たる奥羽山脈を背負い、山麓には成瀬川が流れている。完全に公園として整備されているため、現在の地形がかつての状態を残しているのか、改変されたものかどうかは定かではない。

しかし、かつての地形がそれなりに残されているとして見れば、真人山山頂を物見台として、中腹の公園域に見られる大小の平場は居館跡とも考えられる。

清原氏は、その祖を舎人親王とし、清原深養父や清少納言などとその祖を同じくする。出羽清原氏がこの地に下った詳細は明らかではないが、蝦夷追討でこの地に至り、何らかの理由で土着したものだろう。

前九年の役の際に、陸奥守として安倍氏追討にあたった源頼義は、鬼切部、黄海の二度の敗戦で形勢は不利であった。苦戦を強いられていた頼義は清原氏に辞を低くして参戦を促し、清原光頼は弟武則を総大将として、頼義勢をはるかにしのぐ軍勢を派遣した。

これにより朝廷軍は安倍氏の追討に成功し、武則はこの戦功により朝廷から鎮守府将軍に補任され、奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。

このとき、安倍氏側として戦った藤原経清の妻で安倍頼時の息女は、武則の後継となった子の武貞の妻となり、経清の遺児で後の奥州藤原氏の祖となった藤原清衡は清原氏に引き取られた。これは、清原氏が奥六郡を支配する上で、安倍氏の娘を妻とすることで正当性を得るためのものだったと考えられる。

しかし、真衡、清衡、家衡とその血筋がことなる複雑な兄弟関係が、この後の後三年の役の伏線となり、清原氏は結局、源義家と清衡の軍に破れ、清衡は藤原氏を名乗り、出羽清原氏は滅亡する。

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