秋田県由利本荘市尾崎

震災前取材

 

別名:鶴舞城、尾崎城

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの際に、最上義光は東軍に属し上杉勢と果敢に戦った。関ヶ原の戦いが西軍の敗北に終わると、最上勢は逃げ遅れた上杉勢を素早く追撃し、短期間のうちに上杉領の庄内地方、由利郡を奪取し、勢いに乗り小野寺氏の横手城攻略にまで成功した。

義光は上杉軍を撃退した功により、上杉領の置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡を合わせて57万石のこれまでの最大版図を領した。義光は、秋田仙北郡の小野寺氏に対し湯沢城にあった楯岡満茂に4万5千石を与え、由利郡に配した。

満茂は、当初赤尾津城に入ったが、その後慶長17年(1612)尾崎山に本荘城を築き、赤尾津から移り本荘氏を名乗るようになった。しかし最上氏は、元和8年(1622)家中の内紛により改易され、本荘氏はこの地を離れた。

その後、仙北郡から常陸府中に移っていた六郷政乗が2万2千石で入封し、以後明治維新まで六郷氏11代の居城となった。

戊辰戦争では官軍側に属したため、奥羽越列藩同盟側に立った庄内勢の攻撃を受け、城主の六郷政鑑は城に火を掛け退去し、明治2年(1869)、版籍奉還に伴い廃城となった。

本荘城は、子吉川の湾曲部に突き出すような丘陵先端部にある尾崎山に築かれ、城郭は、本丸、二の丸、三の丸の三郭から成り、本丸には、諏訪神社が置かれた。築城当初より天守閣は無かったが、代用として本丸に二重櫓を置き、居館は山麓北側の三の丸に置かれた。

現在、城跡の主要部は本荘公園になり、土塁および堀が残る。また、三の丸には模擬城門が築かれている。

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