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秋田県秋田市中通一丁目

震災前取材

 

明徳館は、秋田久保田藩の藩校。

寛政元年(1789)、藩主佐竹義和(よしまさ)が、家老疋田柳塘(ひきたりゅうとう)の進言により、藩政改革の一環として人材養成のため明道館を設立した。翌年には医学館を併設し、また院内、湯沢などには郷校をつくり、藩校から教授を派遣した。

教育は儒学が中心で、寛政5年(1793)には儒者山本北山を迎えた。明道館は、文化8年(1811)に明徳館と改称され、また同年、明徳館の事業として菅江真澄に秋田六郡地誌作成を命じ、その後真澄の著書の多くが明徳館に献納された。

明徳館は、藩全体から武士のみならず、足軽、百姓、町人、女子に至るまであらゆる階層から意欲ある者を集めた。修業時間は午前10時から午後10時までであったという。

文政8年(1825)以降、和学方として国学者が採用され、やがて漢学者と対立、平田門実学としての西洋砲術所に拠る国学派が幕末期に藩論を勤皇に傾け、秋田久保田藩は当初は奥羽越列藩同盟側に立ったが、仙台藩からの使者を処刑し、新政府軍側として戊辰戦争を戦うことになる。

幕末期に明徳館の学頭だった根本通明は、秋田県人として初の博士号を授与された。