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秋田県秋田市下新城字岩城

震災前取材

 

岩城館は、新城川左岸の比高約70mの独立丘陵上に位置する山城で、新城川流域と岩城館東麓の街道を押さえる要衝の地に位置している。東から北麓を流れる新城川を自然の濠とし、東、西側は急峻な断崖で防御されている。大手は北麓から延びる北側尾根で、南北に伸びる尾根上に郭を段郭式に配置し、堀切で遮断していた。中枢は主郭、二の郭で、かなり広いスペースがあることから居館であったとも思われる。

岩城館の築城は貞和年間(1345~49)、新城右衛門太夫が築き居城としたのが始まりとされる。この新城氏の出自、事績は不明で、室町期には没落していたと考えられる。その後、戦国期の弘治3年(1557)の湊合戦の頃は、佐藤出羽守綱吉が城主だったと伝えられ、湊安東方として参戦し、檜山城主安東愛季に攻められた。

この後、岩城右衛門太夫康信が城主となったが、天正16年(1588)の安東氏の内訌である「湊騒動」では、岩城氏は湊安東高季に味方したため、檜山城主安東実季に攻められ岩城館は落城し、ほどなく廃城になったと考えられる。

新城川、馬踏川流域には小規模な城館が幾つかあり、湊安東氏時代には岩城氏がこの流域の旗頭として、在地土豪をまとめていたものと思われる。