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秋田県秋田市手形字大沢

震災前取材

 

白馬寺の創建については諸説あるが、佐竹氏一族佐竹東家の当主の佐竹義久が、天正元年(1573)、常陸太田に始祖である政義を開基とし、東家の菩提寺として建立したのが始まりとされる。

関ヶ原の戦いの際に、佐竹氏は石田三成、上杉景勝の西軍側に傾斜していた。徳川家康の東軍は、小山評定の結果反転し関ヶ原に向かった。このとき義久は、佐竹義宣に家康追撃を進言したが容れられず、後難を避けるために「家康を打たないのであれば、わずかな兵でも割き、徳川勢に加わるべき」とし、300騎を率いて徳川秀忠の軍勢に加わったと云う。

関ヶ原の戦いでは東軍が勝利し、佐竹氏は家名断絶、領地没収の憂き目となる恐れがあったが、義久は家康に対して当主義宣の立場を釈明し、佐竹領安堵の誓紙を得たとされる。しかしながら、結局常陸の本領から石高不明のまま秋田に転封となり、佐竹東家もそれに従った。秋田に移った東家は、慶長11年(1606)この地に新たに菩提寺を建立し、寺名をそのまま引き継いだ。

また、一説には次のようにも伝えられる。

源頼朝の奥州征伐で滅ぼされた藤原秀衡の妹の徳の前は、36騎の遺臣に守られこの地まで落ち延びてきた。しかしこの地で姫が乗ってきた白馬が倒れたため、徳の前はこの地にしばらく滞在し、草庵を結び、白馬を祀ったのが始まりとされる。

その後一行は、南下して酒田湊に逃れ、遺臣たちとともに酒田の町を開いたと云う。

本堂は元禄年間(1688~1703)に焼失し、現在の本殿は、享保11年(1726)に再建されたもので、秋田市内でも大変古く貴重な建物。境内には東家の墓碑や幕末に造立された大きな地蔵菩薩が安置されている。