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秋田県秋田市手形字大沢

震災前取材

 

現在の秋田大学の東側、手形の地に秋田久保田藩初代藩主佐竹義宣の正室の菩提寺である正洞院跡と、正洞院の墓がある。

佐竹義宣の正室正洞院は、下野国烏山城主の那須資胤の三女に生まれ、天正13年(1585)、19歳で16歳の義宣のもとに輿入れした。

この当時の佐竹家当主は、鬼義重の異名を持つ佐竹義重で、南に後北条氏と戦い、北に結城白河氏や伊達氏と争い、南奥にも勢力を拡大していた。このような中での婚姻は、佐竹氏と那須氏の同盟であったことは言うまでもない。

しかし、南奥で次第に勢力を拡大する伊達政宗との争いでは結果として敗れ、また天正17年(1589)には、実子の葦名義広は摺上原の戦いにおいて伊達氏に大敗を喫し、白河結城氏、石川氏といった陸奥南部の諸大名は伊達氏に降った。これにより佐竹氏は南から後北条氏、北からは伊達氏の二大勢力に挟まれ、滅亡の危機に立たされた。

佐竹義宣が家督を継いだのはこのような時期だった。義宣が家督を継いだ翌年の天正18年(1590)、夫人は24歳にして謎の自害を遂げこの世を去った。一説には、文弱に流れた義宣を諌め自害したとも伝えられているが定かではない。

この時期、豊臣秀吉の天下統一の動きの中で、天下は大きく変動していた。義重、義宣は、この佐竹氏の危機の時期に豊臣秀吉に従うことで、危機を乗り切ろうとした。義宣は、葦名氏問題の裁定を豊臣秀吉のもとに依頼し、秀吉は政宗に兵を収めるように命じたが政宗は従わず、北条氏直と結び南下を続け、佐竹氏の南奥の領地はつぎつぎと政宗に攻略された。天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐が始まったが、これは義宣が秀吉に、後北条氏、伊達氏が秀吉の総無事令に違背していることを申し立てたことによるものだった。

正洞院の実家の那須氏は、それまで、佐竹氏や後北条氏と結ぶことで勢力の維持を図ってきた。秀吉の小田原攻めでは、秀吉からも後北条方からも呼びかけを受けたが、そのどちらにも応じず、静観の態度をとった。

この時、すでに佐竹氏は、豊臣との結びつきを深めていたと思われ、佐竹氏は那須氏への働きかけも行っていたものと推測できる。正洞院はこの狭間で苦悩したものと考えられ、これが自害につながったのではないかと考えられる。結果として、佐竹氏は危機を乗り切り、那須氏は滅亡した。

後年、佐竹義宣は、夫人の墓を常陸太田からこの地に遷し、江戸と久保田の両地に菩提寺の正洞院を建立し、夫人の霊を丁重に弔い追悼供養をしたと伝えられる。