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秋田県秋田市八橋本町六丁目

震災前取材

この墓地は 、慶応3年(1868)の戊辰戦争における秋田久保田藩と、薩摩、肥前、筑前、新庄など計十六藩の新政府側の戦死者を葬っており、当時内務省が定額の修繕費を支出して管理していた官修墓地である。

明治28年(1895)、全良寺住職らが発願し、多額の私財を費やして完成させた。当初は523基665霊を建立したが、後に遺族がそれぞれの故郷に改葬し、現在は323基、395霊が弔われている。戦死者は15歳の少年から63歳の高齢者に及び、秋田では多くの藩兵が入り乱れての激戦が行われたことをしのばせる。

国学の平田篤胤の生没地である久保田藩は、その影響から勤王思想が他藩よりも強かった。このため、戊辰戦争の際には藩論はなかなか定まらなかった。慶応3年(1868)1月、新政府の奥羽鎮撫隊総督九条道孝は仙台に入り、直ちに仙台、米沢両藩に会津討伐を命じ、4月には久保田藩に庄内藩の討伐を命じた。

この命を受けて秋田久保田藩は、津軽藩、新庄藩などとともに庄内藩を攻めようとした。しかし庄内藩の討伐は薩摩藩の私怨と考える者も多く、士気はふるわず、庄内藩の攻撃により久保田連合軍は総崩れとなった。その後、仙台藩の呼びかけにより、仙台藩の白石で奥羽越列藩同盟が結ばれ、秋田久保田藩もこれに調印した。

しかし、その後久保田藩に奥羽鎮撫隊総督の九条道孝が入り、薩摩、長州、佐賀などの新政府軍も入り、これに疑いを抱いた仙台藩は使者を送ったが、久保田藩の尊皇攘夷派は、仙台藩の使者と盛岡藩の随員すべてを斬り、城下にその首をさらし、久保田藩は列藩同盟から脱盟した。

その後、久保田藩に近い新庄藩、本荘藩、矢島藩、亀田藩も新政府軍に恭順し、このため庄内藩、仙台藩の同盟軍は新庄城を攻めこれを落とした。秋田久保田藩は、周囲を奥羽越列藩同盟の勢力に囲まれ、各所で藩境を突破され、同盟軍は久保田城間近にまで迫る危機的な状況に陥った。

しかしその間、新政府軍は、福島の平城、二本松城を落とし、会津城下になだれ込み、米沢藩、仙台藩も降伏、このため庄内勢は領内へ撤退しついに降伏した。