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秋田県秋田市泉三嶽根…天徳寺

震災前取材

 

秋田市の泉山の天徳寺に佐竹氏歴代の墓がある。霊屋は入母屋造り、妻入で、正面に唐破風造りの前殿を設けている。内外の要所を彫刻で飾り。漆や極彩色が施されている。

佐竹氏は、清和源氏の流れで、源義家の弟の源義光の孫の源昌義に始まる。義光は「後三年の役」の際に、奥州へ赴き兄の義家を助けた。役後、その功績により、常陸介や甲斐守などの官職を得て、陸奥や常陸に領地を得て、常陸では佐竹郷を領有した。

義光の子の義業が佐竹郷に下向し、常陸に勢力を有していた平繁幹の娘を妻に迎え、常陸平氏と同盟を結ぶことで常陸に勢力を拡大する基礎を固めた。当時、常陸南部は常陸平氏の勢力圏で、義業は常陸北部に勢力を拡大していった。義業の子の義昌の時代になると、常陸奥七郡をほぼその支配下におき、昌義は久慈郡佐竹郷に本拠を置き、佐竹氏の初代となった。

佐竹氏は、常陸平氏を介して中央の平氏と結び、治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵したときも明確に反頼朝の立場をとった。頼朝は富士川の合戦で平氏の軍勢を破ったが、そのまま京都に攻め上ることが出来なかったのは、常陸の佐竹氏や常陸平氏の動向によるものだった。頼朝は佐竹氏討伐のために常陸に兵を進め、佐竹氏は金砂山合戦で敗れ、それまでの奥七郡および太田、糟田、酒出などの所領を没収され佐竹氏の勢力は潰滅した。

文治5年(1189)の頼朝による奥州藤原氏征伐の際、当時の佐竹氏惣領の秀義は頼朝に帰順し、名誉回復をはかり奥州へ出陣し、その地位を回復し常陸介に任じられた。しかし常陸の守護は八田知家であり、鎌倉期の佐竹氏は小田、宍戸、大掾氏らの勢力に押されがちだった。

南北朝期の建武2年(1335)、北条時行が鎌倉を攻め「中先代の乱」が起きた。このとき佐竹貞義は足利直義を支援したが北条軍の勢力は強く、直義は敗れ、貞義もまた撃破され多くの有力武将を失った。その後、京都の足利尊氏が東下し、北条軍を破り鎌倉に入り、以降、尊氏は後醍醐天皇の意向を無視し鎌倉にとどまり政務をとった。佐竹貞義はこの時期に正式に常陸守護に任ぜられ、佐竹氏発展の基礎を築いた。

後醍醐天皇は足利尊氏征伐のため新田義貞に軍勢を授けて東下させ、足利尊氏は箱根でこれを迎え撃った。佐竹義篤は足利方に属し奮戦し、尊氏は新田軍を破り京都へ進撃し、義篤もそれに従った。しかし、その後陸奥から攻め上った北畠顕家の軍に敗れ、尊氏は九州へと逃れた。

佐竹氏の留守部隊は、西金砂山城を拠点に南朝方と対峙し、建武3年(1336)南朝方の楠正家は西金砂山城に攻撃をかけ、佐竹勢は激戦のすえに敗退した。このとき、貞義の子義冬が戦死した。

佐竹義篤は常陸に戻り南朝方と交戦を繰り返し、一進一退の激しい攻防が繰り返された。しかし次第に南朝方の勢力は衰退し、南朝方は分裂し、北畠親房が吉野に退いたことにより南朝方の退潮は決定的なものとなった。代わって、常陸で終始足利方として活躍した佐竹氏が常陸の雄として台頭することになった。

佐竹氏は常陸北部の支配を不動のものにし、稲木、額田、岡田などの一族を常陸の各地に配し、強力な惣領制を形成していった。

佐竹氏には、足利尊氏に従い京に上り、そのまま京に留まった山入氏を名乗る佐竹義篤の弟の師義の流れがあった。佐竹氏は、義盛に嗣子がなく、その跡を関東管領山内上杉憲定の子義憲を迎えて佐竹惣領家と守護職を継がせた。山入氏はこれに反発、その後の応永23年(1416)の「上杉禅秀の乱」では敵味方に別れ争った。結局この争乱は上杉禅秀が敗れて自刃し、佐竹宗家側の鎌倉公方の足利持氏が勝利した。

しかし、室町政権と対立を続ける鎌倉公方足利持氏に対し、幕府は応永25年(1418)山入与義を常陸守護とした。このため常陸の守護職は、従来からの佐竹氏と山入佐竹氏とが半国守護として並びたつことになった。その後、足利持氏と幕府の対立が激化し、永享の乱で敗れた持氏は自殺に追い込まれ、持氏方の佐竹宗家は衰退した。

以後、佐竹宗家と山入氏との間で衝突が繰り返される。延徳2年(1490)、佐竹氏当主の義治が死去しその跡を義舜が継ぐと、山入義藤は佐竹一族を糾合し、水戸氏らとともに一気に太田城を攻撃した。未だ若い佐竹義舜は抗しきれず孫根城に逃亡、山入氏が佐竹氏の本城である太田城の城主となった。しかし義舜は、次第に態勢を固め山入氏を孤立化させ、ついに永正元年(1504)太田城の奪還に成功、一世紀にわたる佐竹宗家と山入氏との抗争は終結した。

佐竹義舜は、家臣団を再編成して軍事力を整備し、山入地方には弟義言を、檜沢、高武方面には同じく弟の政義を配置した。義言、政義はそれぞれ佐竹北家、佐竹東家の祖となり、佐竹宗家を中心とする共同支配体制を確立した。また義舜は、これまでに江戸氏や白河結城氏に奪われた旧領の回復をはかり、佐竹氏が戦国大名として雄飛する基礎を固めた。

義舜の跡を継いだ佐竹義篤は、江戸氏と強調し、佐竹氏は北へ、江戸氏は南へと勢力を拡大していった。また弟義元との10年以上にわたる抗争に決着をつけて佐竹宗家の権力はさらに強化された。また下那須に進出し、天文10年(1541)には、白河結城氏と争い、南郷の要害である東館を陥落させ、南奥への足がかりを得た。

義篤のあとの佐竹義昭の代にはさらに周囲に勢力を拡大していく。佐竹領の北の八溝金山の支配をめぐり白河結城氏と対立、また関係が悪化していた江戸氏とは、天文16年~19年(1547~1550)にかけ合戦を繰り返した。江戸氏は佐竹氏の宿敵である白河結城氏と結び佐竹氏に対抗したが、次第に佐竹氏が優勢となり、天文20年(1551)には佐竹氏と江戸氏は和議を結び、江戸氏は実質的に佐竹氏の麾下に属するようになった。

天文21年(1552)には竜子山城主の大塚氏が麾下に属し、翌22年には岩城氏一族の船尾氏が佐竹氏に属した。また弘治3年(1557)には、宇都宮氏の内紛に際し宇都宮尚綱の嫡子の広綱を助けて宇都宮に出陣し、広綱を宇都宮城に復帰させた。のちに広綱の妻として娘を送り、佐竹、宇都宮両氏の連合を形成した。また那須氏とも同盟を結び、白河結城氏の攻略に全力をあげた。また岩城氏重臣の上遠野氏を臣従させ南奥に勢力を拡大していった。

永禄3年(1560)、義昭は南郷北部の寺山城を攻略し白河結城氏への攻勢を強める一方、南進策も取り始めた。しかし小田原北条氏は北に勢力を拡げつつありその鉾先は北関東にも迫りつつあり、佐竹氏は上杉謙信と結びそれに対抗した。永禄7年(1564)、義昭は謙信の助けを得て小田城を攻略し小田領を奪取、常陸府中城の大掾氏も佐竹氏の麾下に属するようになった。さらに、下野では松野、茂木、武茂氏らを服属させた。

義昭のあとを継いだ義重は、「鬼義重」「坂東太郎」の異名をとる豪勇の武将であり、関東管領職に補任された上杉謙信と結び北進する小田原北条氏に対した。しかし、小田原北条氏の北進、武田氏の上野侵攻など、上杉謙信との友好関係だけでは勢力拡大は望めない情勢になりつつあった。永禄12年(1569)、上杉氏と北条氏との間で「越相同盟」が成立すると、義重は武田信玄と結びこれに対した。

義重は、上杉、北条、武田氏の勢力均衡の間を縫って、南奥への進出を続けた。天正2年(1574)には赤館城に迫り、翌年には白河結城氏の内紛に乗じて白河義親の居城を残して白河領の大半を征服した。しかし、この佐竹氏の勢力の北上は、南下する伊達氏との対立を激化させることになっていく。

また小田原北条氏は、その勢力は着実に、常陸、下野地方に大きく伸ばしてきていた。さらに天正6年(1578)上杉謙信が死去し、佐竹氏に対する小田原北条氏の軍事的圧力はさらに強くなっていった。これに対し佐竹氏は、天正11年(1583)、羽柴秀吉と友好関係を結び北条氏の圧迫に抵抗しようとした。

佐竹氏は天正12年(1584)、ついに北条氏と沼尻で激突、佐竹勢は劣勢であったが、鉄砲を駆使し、後北条氏の進出を防ぐことに成功した。しかし翌13年には、伊達政宗と人取橋周辺で戦い、伊達勢に対して優勢に戦いを進めたが、江戸氏に対するため兵を退き、結果として伊達氏の南奥での勢力拡大を許した。

義重は、伊達氏との対立の中で、白河結城氏に入嗣していた次男の義広を、会津葦名氏の跡目に送り込むことに成功していたが、伊達政宗との対立関係はさらに深まっていた。このような伊達氏の南進、北条氏の北進という重大な時期に、佐竹義宣が家督を継いだ。

南進する伊達政宗は、葦名氏との対立を深めながら、小浜城、二本松城を次々に攻め、葦名氏の諸将の内通を誘い、勢力を拡大していった。葦名義広は阿武隈川沿いに伊達軍と戦い敗勢となり、父佐竹義重の援軍を得て郡山城を囲み、両軍、すさまじい白兵戦を展開したが決着はつかなかった。

政宗はなおも葦名領を蚕食しつづけ、天正17年(1579)磐梯山麓の摺上原で決戦となった。須賀川に集結していた葦名、佐竹の連合軍は、猪苗代盛国が猪苗代城で謀叛を起こし伊達軍を引き入れたことを知り、義広は急遽会津黒川城に引き返した。そして、黒川城を出陣した葦名軍1万6千と、猪苗代城を発した伊達軍2万3千は、磐梯山麓の摺上原で激突した。

合戦は緒戦では葦名勢が有利に進めたが、内紛の疑心暗鬼からか、葦名の二軍、三軍は停滞し、そこに伊達成実勢が迂回作戦に出た。葦名勢は敵の出現を味方の謀叛かと誤認するなど浮き足だち、伊達勢の総攻撃の前に総崩れとなった。合戦に敗れた義広は実家の佐竹氏に逃げ落ち、葦名氏は滅亡した。

勢いに乗じた政宗は仙道地方を南下し、佐竹氏の与党であった白河義親や石川昭光など南奥諸大名を次々に伊達勢の支配下に入れ、伊達勢は常陸の国境に迫った。さらに小田原北条氏と伊達氏が同盟を結んだことで、佐竹氏は孤立化し存亡の危機に直面した。

佐竹義宣は、葦名氏問題を訴え、秀吉は政宗に対して兵を収めるように命じたが政宗はそれに従わず南下を続けた。天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原征伐を開始、これは、佐竹義宣が秀吉に、小田原北条氏と伊達氏が、関東、奥羽において、惣無事令に違背していることを訴えたためのものだった。

秀吉は京都を出発し小田原攻めを開始した。佐竹氏は伊達氏の南下を防ぐため白河で対陣していたが、石田三成の仲介を得て莫大な進物を携えて秀吉のもとへ伺候した。同年7月、小田原城は開城し北条氏は没落した。その後の仕置で、小田原参陣に遅参した伊達政宗は岩出山に去り、佐竹氏の危機は去った。

小田原征伐に参陣した佐竹義宣は、秀吉から常陸の所領を安堵された。そして秀吉から得た朱印状をてことし、12月には江戸氏の拠る水戸城を攻撃して江戸一族を追放、ついで、府中城を攻撃して大掾氏を滅亡させた。また常陸南部では、常陸大掾系の一族を中心とする南方三十三館と称される武将たちを、天正19年(1591)2月、太田城に招いて一気に謀殺し、常陸を完全に手中におさめた。

豊臣政権の中での義宣は、豊臣政権の六大将と呼ばれ、五大老に次ぐものだった。石田三成との親交も篤く、加藤清正らの三成襲撃事件では三成を救出もしている。慶長5年(1600)、関ヶ原合戦に際して、義宣は表では中立を装ったが、裏では三成派やそれと結ぶ会津の上杉景勝と密約を交していたともいわれ、事実、徳川の上杉征伐に備えての上杉の城の修築などを支援している。

関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602)春、義宣は徳川家康の命により上洛した。この時期には戦後処理は殆ど終わっており、義宣はなんとか乗り切れると思っていた節がある。しかし、徳川家康は義宣に対し、領国没収、石高不明のまま秋田へ移ることを命じた。そして義宣は京に留め置かれたまま、常陸の城々は接収された。その後、京から直接秋田へ赴くことが命じられ、常陸の領国に戻ることも許されず、わずかに93騎の供連れで秋田に移った。しかしその後は転封もなく、秋田佐竹初代藩主義宣から十二代の間秋田藩を統治し明治に至った。