秋田県仙北市角館町字西勝楽町…常光院

震災前取材

 

慶応4年(1868)、戊辰戦争は東北へも広がりを見せていた。秋田久保田藩は、当初奥羽越列藩同盟に参加していたが、平田篤胤に心酔する尊皇攘夷派も多く、藩論は統一せず曖昧なままだった。

このため、奥羽越列藩同盟の盟主の仙台藩は、秋田久保田藩に使者7名を派遣したが、久保田藩の尊皇攘夷派は、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。こうして秋田久保田藩は、東北地方における新政府軍の拠点となった。このため奥羽越列藩同盟側の周辺諸藩は秋田久保田藩領に侵攻、同年8月には、列藩同盟側は角館の目前まで迫った。秋田藩は西国諸藩の新政府軍の援兵を得て、町の南を流れる玉川を盾に防戦し、二日間にわたる攻撃を凌いだ。

しかしその後も戦局は好転せず、周辺の久保田藩側の拠点も次々と落とされ、角館は孤立し、武器弾薬や生活物資も枯渇し、一時は角館の放棄も取りざたされた。しかし9月になると、米沢藩や仙台藩は降伏し、17日ころから列藩同盟側は久保田藩領からの撤退を開始し、角館はかろうじて戦禍をまぬがれた。

この戦役には新政府軍の九州諸藩の兵士らも秋田藩士とともに戦ったが、この佐竹北家の菩提所である常光院は、仙北郡内諸方の戦いで負傷した兵士の病院に充てられ、他藩から応援に来てこの地方で戦死した兵士はこの寺に埋葬された。他藩援兵の戦死者は、大村藩7名、平戸藩7名、長州藩、薩摩藩各1名となった。その後郷里に改葬したものもあり、現在9柱が埋葬されている。

墓地正面に、少年鼓手の碑があり、これは父に代わり15歳で鼓手として来援し戦死した大村藩士浜田謹吾の顕彰碑である、碑には出陣の門出に母がその覚悟を和歌に託して贈ったという歌が刻まれている。

二葉より 手くれみずくれ まつはなは 君がためにそ 咲けやこのとき

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