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秋田県大仙市協和境字下台

震災前取材

 

唐松神社には、「物部文書」と呼ばれる古文書が伝わり、物部氏の末裔が創建したと伝えられる。

唐松神社は、本来「韓服宮」という名前で、これは、神功皇后が三韓征伐後、新羅征討に参加した物部氏の膽咋連(いくいくむらじ)が、皇后の御腹帯を拝受し、この地にいたり創建したと伝えられる。膽咋連はこの地にしばらく留まり、住民に神祭、呪ない、医術を伝え、後に大和へ移ったという。

この皇后の御腹帯の故か、古来から安産と子授けの神として崇敬されている。江戸時代、佐竹藩の久姫は臨月で苦しみ、姫の願いにより家臣が姫の安産を祈ったところ、久姫は無事男子を安産したと伝えられ、このときお礼として神社に新しく蛇頭神楽面を奉納し、現在は県の有形文化財の指定を受けている。

樹齢300年の見事なスギ並木を通り参道を行くと、社殿までは下り坂になり、さらに数段の階段を下ると社殿がある。一般的には社殿は境内の一段高い所に鎮座していることが多いが、唐松神社の社殿は周囲よりも一段低い窪地にある。

後三年の役の際に、源義家が軍勢が、安倍貞任との度重なる戦を戦いながらこの地に至った。しかし兵馬は進退意のままにならぬほど疲れており、安倍の軍勢はここぞとばかりに攻めかかり、義家の命も危ういまでになった。そのとき忽然と一人の勇士があらわれ、安倍勢を四方に蹴散らし、義家の難を救った。この勇士こそが、唐松権現だったと伝えられる。

かつて社殿は唐松岳山頂にあったが、秋田久保田藩主の佐竹義処が、領内巡見の際に、この神社の前で下馬札を無視し、馬に乗ったまま通り過ぎようとしたところ落馬した。これを怒った義処は、社殿を平地におろして建てさせた。ところが、次の年にまた同じところで落馬したため、さらに下の窪地に下ろし竹囲いにして閉門にした。すると今度は義処は原因不明の病に罹り、これは唐松神社の怒りのためだとし竹囲いを外し閉門を解いたと伝えられる。