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秋田県大仙市北神岡字船戸

震災前取材

 

浮嶋神社は、かつては垂川の中島の小丘に、養老年間(717~24)、村の鎮守神として創立された。この地を流れる垂川は暴れ川で、洪水時には中島は浮き上りただよい、減水と共に元の位置に戻った。このため「浮嶋神社」と呼ばれるようになったと云う。

浮嶋神社 の使い神の竜神は、気性激しく洪水時は荒神となり、橋の流失や、通行する人馬が死傷するなど被害が絶えず、毎年のように村の娘が竜神に人身御供に捧げられた。しかし白羽の矢が立てられた娘はもちろん、その親たちの嘆きは深く、村人たちは御供のほかに何かいい方法はないものかと相談した。

その結果、最も食料が不足する厳冬に、浮島神社の竜神に食料を供え、その前でにぎやかな綱引きを行った。それ以降は、娘を御供にすることもなくなり、この綱引き行事は神事として現在も行われており、「刈和野大綱引き」として、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

享保8年(1723)、現在地に移転、社殿が建立され、のち境内を広げ文政5年(1822)改築された。明治5年(1872)には神仏分離により12社を合祀した。

その後、浮島神社の境内に茂る笹は、軍人たちの身代わりになるという弾丸よけ笹といわれ、日露戦争から太平洋戦争の間に、近在から出征する人たちはこの笹を身につけて戦地に赴いたと云う。