秋田県大仙市協和境字川原五騎

震災前取材

 

唐松城は、雄物川の支流淀川右岸の比高およそ60mの小丘陵に位置する山城であり、羽州街道から角館方向への分岐点に位置している。頂部の主郭から東、南側斜面に、9~10段の段郭が配されている。東側は淀川に面した断崖に守られ、主郭北側の丘陵基部と南西側尾根は堀切で遮断されている。また主郭の西側には 数条の畝状竪堀が穿たれている。

唐松城は、平安時代後期、陸奥の郡司の安部貞任の弟、境講師官照の城だったが、康平6年(1063)の前九年の役の折に、源義家の攻撃にあい、落城したと伝えられている。

戦国期末期には、羽州、淀川、繋街道の重要な分岐点にあたるこの地は、檜山、湊に拠点を置く安東氏の最前線基地であり、周辺は唐松野合戦などの戦いが繰り広げられた古戦場でもある。

唐松野合戦は、豊臣秀吉が九州攻めを行い、着々と全国制覇に邁進していた天正15年(1587)、安東氏と戸沢氏が直接対決した合戦である。この当時、北出羽は、安東、戸沢、小野寺各氏が 生き残りをかけてしのぎを削っていた。

安東愛季は、檜山安東と湊安東を統合し、独立の動きを見せる浅利勝頼を檜山城で謀殺し、本格的に仙北郡への侵攻を計ろうとした。角館の戸沢氏と横手の小野寺氏は緊張関係にあり、小野寺氏は最上氏との戦いで有屋峠に出陣中で、安東愛季は戸沢氏と同盟を結び仙北郡に侵攻する事を策した。

しかし戸沢盛安は安東氏との同盟を拒否し、このため安東氏の矛先は戸沢氏へと向けられた。安東愛季は、兵3千を率い、この城を前線基地として布陣した。対する戸沢氏は、荒川城、淀川城を前線基地として陣を敷いた。

安東愛季は、淀川城を攻撃しこれを奪取し、戸沢氏の西方向への退路を断った。戸沢盛安は唐松野での野戦を決意し、兵1千200を率い淀川を挟んだ唐松野に布陣、安東軍と対峙した。両軍は暫時接近し激突、戦闘は3日間におよび、安東軍300、戸沢軍100余人の戦死者がでる激戦となった。

しかし、この陣中に安東愛季が死去、安東軍はそれを固く秘し軍を撤退した。このとき戸沢軍は追撃戦を行う余力はなかったようで、安東軍は戦場を離脱した。 安東愛季の跡は12歳の実季が継ぎ、翌年再び安東軍は兵を進め戸沢軍と対峙したが、決定的な戦いが行われることなく双方兵を退いた。その後、安東氏内訌の湊騒動が起き 、仙北郡に侵攻することはなかった。

現在、城山の保存状態は良好で、公園化されている。また山麓には「まほろば唐松・中世の館」として、中世居館をイメージした観光施設がある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です