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秋田県鹿角市十和田大湯

2011/10/02取材

鹿倉城は、大湯川左岸に北方に突き出た丘陵先端上に築かれた山城である。初めは南側緩斜面の丘陵上に置かれたようだが、その後、戦国期には本郭を北側の急斜面の丘陵上に移し、南側の古館やその周辺には、家臣の屋敷などが配されたと思われる。

大手口は東側にあり、登城路西側には大小の郭が配されている。古館と区画する鞍部に出ると、正面に城塁が見られ、虎口を抜けると本郭跡の平場がある。

本郭平場は東西に長く西側に鎮魂碑があり、東側に一段高く鹿倉神社の祠がある。本郭の北側と東側は急斜面で守られ、搦手口に続く西側も比較的斜面は急で、数段の段郭が見られる。

北武蔵の成田氏分流がこの地に下向し、その後は土着し諸氏に分かれ、鹿角42舘と呼ばれる城館群を構え、それぞれに地名を苗字にした。大湯氏は、最初は古館に居し、その後、北側に鹿倉城を築き移ったものと思われる。

戦国期に鹿角は、三戸の南部氏と、檜山安東氏の争乱の地となり、南部氏が侵攻し、大湯氏はこの地を安堵され南部氏の傘下に入った。しかし、南部氏の統治は苛烈であったようで、鹿角の諸氏は相計り、安東勢を呼び込み、一時は南部勢を駆逐した。しかしそれも三戸から大軍が派遣されると、再び南部氏の支配するところとなった。

天正18年(1590)、九戸の乱が起きると、大湯四郎佐衛門は嫡子を津軽為信の許に預け、九戸方として挙兵した。九戸方は、九戸氏、七戸氏、一戸氏、櫛引氏、清長氏、姉帯氏、大里氏、円子氏、大湯氏などで、津軽氏、安東氏、浄法寺氏、遠野氏、志和氏など北東北の大半は九戸寄りの姿勢をとっていた。

存亡の危機に立たされた南部氏は、この乱が豊臣秀吉の惣無事令に違背するものとして豊臣政権に働きかけ、奥州仕置軍の引きこみに成功する。

鹿倉城には、南部氏の家臣の大光寺光愛が押し寄せ激戦となった。光愛は猛攻撃をしかけたが大湯四郎左衛門は周辺に聞こえた名将で、また城には兵糧も豊富に備蓄してありなかなか落ちず、南部方は、城攻め将の関助右衛門ほか多くの死傷者が出た。しかしそれでも多勢に無勢、光愛の明け方からの総攻撃で落城した。大湯四郎左衛門は大湯を落ち延び、九戸政実の籠る九戸城へ入った。

九戸城は、6万5千の大軍に包囲されながらも、その猛攻に絶え、むしろ有利に戦いを進めていた。しかし、仕置軍の謀略により、九戸政実や大湯四郎佐衛門らの城将が城を出ると、城兵らは女子供まで撫で斬りにされた。大湯四郎佐衛門らは栗原の三迫に送られ、天下に背く大罪人として一切の申し開きも許されず斬首された。

鹿倉城の戦いで討ち死にした多くの城兵も弔うことは許されず、その屍を野末にさらした。その後村人達は、お盆には供養太鼓を打ち鳴らし、ひそかに供養したと伝えられる。