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秋田県鹿角市八幡平堂の上堂の上

2013/06/10取材

 

大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ)は、第二十六代継体天皇の時代、その徳により美酒の湧く泉を授かっただんぶり長者の善行を伝えようと、勅願により創建されたと云う。

その後、養老2年(718)の元正天皇の代に、この地に伝わるだんぶり長者の物語を奏聞し、養老への改元との符牒を認め、行基を下向させ大日社を再建した。この時、行基に随行した工匠、音楽師などが、里人に舞楽を伝授したのが、現在の大日堂舞楽であるという。

歴代領主の崇敬を集め、平安時代末の寿永2年(1183)には、鎮守府将軍藤原秀衡の命により、社殿の大修理が行われ、戦国期の文明18年(1486)には、南部十五代南部政盛の命で大日堂が修復された。

江戸時代になり、元和2年(1616)、南部藩主の南部利直から、社領80石あまりを寄進され、明治維新まで85石の社領を1里四方の山林の社地によって維持した。

寛文5年(1665)大晦日の火災で大日堂と尊像を焼失したが、藩主南部重信によりただちに再建され、以後南部家崇敬、八大社の一つとして、社殿の修理が藩主の命により行われた。

昭和24年(1949)、社殿が全焼し、現在の社殿は、昭和31年(1956)に建設されたもの。

 

だんぶり長者伝説は、秋田県と岩手県にまたがって残る伝説で、以下のようなものである。

昔、出羽国の独鈷村に気立ての良い娘がいた。ある夜、娘の夢に老人が現れ「川上に行けば夫となる男に出合うだろう」と告げる。お告げ通り、娘は川上の小豆沢で一人の男に出合い夫婦となった。

貧しいながら仲睦まじく暮らしていたある年の正月、また老人が夢に現れ「もっと川上に住めば徳のある人になるだろう」と告げた。夫婦は川をさかのぼり、現在の米代川の源流に近い田山村に移り住みよく働いた。

ある日、夫が野良仕事に疲れうとうとしていると、一匹のだんぶり(とんぼ)が飛んできて、夫の口に尻尾で2・3度触れた。目を覚ました夫は妻に「不思議なうまい酒を飲んだ」と話し、二人はだんぶりの後を追っていくと、先の岩陰に酒が湧く泉を見つけた。酒は尽きることがなく、飲めばどんな病気も癒された。

夫婦はこの泉で金持ちとなり、多くの人が夫婦の家に集まってきた。人々が朝夕に研ぐ米の汁で川が白くなり、いつしか川は「米代川」と呼ばれるようになった。

夫婦には秀子という一人娘がいた。秀子は優しく美しく成長し、やがて継体天皇に仕え、吉祥姫と呼ばれた。夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」として人々に慕われた。

年月が過ぎ、夫婦がこの世を去ると、酒泉はただの泉になってしまった。両親の死を悲しんだ吉祥姫は都から戻り、小豆沢の地に社を建てて供養した。この姫も世を去ると、村人達は姫を社の近くに埋葬し、銀杏の木を植えた。