2013/08/21

 

歴史散策⇒南部信直夫妻の墓

この地の南部信直夫妻墓所や南部利直廟所などは、以前も訪れたのだが、予約がなければ立ち入ることも写真を撮ることも出来ず、あきらめて帰った。今回は気ままな放浪者の私としてはめずらしく、前もって役場に連絡をとり、時間を約束し、役場の方と一緒の訪問だった。

夫妻の墓所は、菩提寺の裏山の少し小高い位置の囲いの中に、ひっそりと並んで立っていた。南部信直は、三戸南部氏の継承争いに勝ち、それに起因する九戸の乱も乗り切り、南部氏を中世から近世に引き継いだ人物だ。その間、南部一族のあらかた半数を敵に回し打ち平らげ、懐柔し下った者も、結局はその多くは信頼できずに謀殺している。

信直は少年期には、人の話をよく聞く南部氏の期待の公子であったようだが、三戸南部当主晴政の嫡女の娘婿とし、三戸南部の後嗣となったが、晴政に実子が生まれると疎まれ、暗殺されそうにもなったらしい。正妻の晴政娘も早世し、身の置き所のなくなった信直は、所領の田子に戻り憤激の日々を過ごしたのだろう。

この時期、信直に寄り添い、数少ない理解者であったのが後室の慈照院だ。信直にとっては無条件に心を開くことができたのは、恐らくはこの慈照院だけだったろう。

南部晴政が没し、その子の晴継が急死すると、信直は北信愛や八戸政栄の支持を背景に南部氏宗家を継ぐことになる。この時期から南部氏は骨肉相争う、血みどろの対立が続くことになり、信直はごく一部の者しか信頼することができずに、南部氏に降った周辺豪族らも、その多くは謀殺するなど、苛烈さを増していった。

恐らく信直は、一族のものや周辺豪族らからは、血も涙もない暴君として畏怖されていたのかもしれない。しかし実際にはそうでなければ南部氏が存続することはできなかっただろう。そのような中での信直の孤独は推察するに余りある。信直は激動の時期を乗り越え、享年54歳で没した。それは信直にとっては安息そのものだったろう。

慈照院は信直の菩提を弔い、信直が孤独の地獄の中で近世につないだ南部氏の繁栄をみながら86歳で没した。

同時代を生きた仙台の伊達政宗や、津軽の津軽為信の廟所など比べると、その囲いが巡らされた夫妻の墓は、南部氏中興の祖の墓としては、まことにつつましいものだ。そしてまたこの時代に、夫妻の墓石が並んで建てられていることも稀なことだ。しかしそれはむしろ、夫妻の生前の地獄のすさまじさと、死後の安息の深さを物語っているようにも思えた。