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現在の気仙沼市を含む本吉地方は、金を産出し、また平泉藤原氏にとって重要な湊でもあり、藤原秀衡の四男の本吉四郎高衡が治めていた。この時期、平泉には源義経が身を寄せており、おそらくは義経は度々この地を訪れていると推測でき、義経にかかわる伝説が多く伝えられる。

源義経は源義朝の9男で、頼朝の異母弟であり、幼名を牛若丸と称した。父義朝は平治の乱に敗れ、母や兄弟とは離され、出家するべく遮那王と名付けられ鞍馬寺にあずけられた。しかし遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、金売り吉次の案内で平泉に向かう途中、近江国の鏡宿で自らの手で元服を行い、源義経と名乗った。

気仙沼市の観音寺は、前九年の役の際に源義家と戦った安倍の貞任の家臣の金氏一族の菩提寺であるが、義経の恋人である皆鶴姫の菩提寺として、義経の牌子が安置され、義経の使用したという笈が伝えられている。

この地には、次のような話が伝えられている。

源義経は年少の頃、母常盤御前から離され京都の鞍馬山で少年時代をおくった。義経は、鞍馬別当鬼一法眼のもとで、文武を学んだ。鬼一法眼には皆鶴姫と言う娘がおり、二人はいつか恋仲になった。

鬼一法眼は、兵学奥書「六諂三略」を持っており、義経はそれを見ることを望んだがかなわなかった。義経は皆鶴姫に頼み、この兵法書を手に入れた。

その後、義経は姫との恋を捨て、青雲の志を抱き、金売吉次につれられて、遠く奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せることになった。平泉で過ごしていた義経は、ある日皆鶴姫の霊夢を見た。それは、兵法書を持ち出した皆鶴姫が、父法眼の怒りに触れて、九十九里浜から器船(うつぼ船)に乗せられ流され、本吉のゆりあげ浜に打ち上げられたというものだった。

義経は驚き、馬を走らせ本吉のゆりあげ浜は何処かと探していると、現在の松岩母体田の海岸に人が集まっていた。見ると器船が打ち上げられ、その中で、無残にも耳、鼻をそがれた皆鶴姫が、非業の死をとげていた。その亡骸の傍らに、義経がかつて姫に与えた、行基菩薩作の観音像があった。義経は里人達の手をかり、母体田の仏磯で姫を火葬に付し、姫の守り観音を観音寺に納め皆鶴姫の菩提を弔ったという。

現在、観音寺には、このとき皆鶴姫を乗せて浜に打ち上げられたという器船の舟材と、義経が使用していた笈が残され、また境内には「弁慶けさがけの石」が残る。

この皆鶴姫の伝説は、江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎で様々に取り上げられた創作をモチーフにしていると思われ、東北地方にはその地の義経伝説と結びつき様々にアレンジされ伝えられているようだ。

しかしこの地の伝説では、器船の舟材や、義経が使用していたとされる笈が残されているなど何かしらの史実をうかがわせる。

その中に、同じ気仙沼のお伊勢浜に、源頼朝の挙兵に従った三浦一党が落ちのびてきたとの伝説があり、その一族が旧暦の9月1日の夜に、浜辺に集まり故郷を偲んだという行事が今に伝わっている。三浦氏は相模の三浦半島の衣笠城を拠点としていたが、源頼朝が挙兵すると、一族挙げてこれに合流しようと居城の衣笠城を出撃した。

しかし、途中で石橋山の戦いにおける頼朝の敗戦を聞き、引き返して衣笠城に篭城した。ほどなくして衣笠城は平家方に包囲され合戦となり、義明は一族郎党を率いて奮戦するが、最終的には刀折れ矢尽き敗れた。三浦義明は、一族を安房に逃した後に独り城を守り討ち死にしたとされる。気仙沼地方の伝承は、その時逃れて来た三浦一族に関わるものかもしれない。