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青森県南部町字小向聖寿寺(三光寺境内)

2013/08/21取材

 

※拝観は要予約(南部町役場へ)

南部信直は、南部氏第二十六代当主で、初代盛岡南部藩藩主南部利直の父である。

信直は、天文15年(1546)南部氏第二十二代当主南部政康の次男石川高信の庶長子として生まれた。南部氏第二十四代を継いだ南部晴政には男子が無く、そのため信直は晴政の嫡女の婿となり、養嗣子として三戸城に迎えられた。

永禄9年(1566)と永禄11年(1568)、鹿角郡に侵入した安東愛季軍を撃退し、知勇併せた名将としての片鱗を表しはじめたが、元亀元年(1570)、晴政に実子南部晴継が誕生すると次第に晴政から疎まれるようになり、晴政の手のものに襲撃されたりもした。

このことから、晴政と信直の関係は急激に悪化し、さらに元亀2年(1571、異説あり)には、津軽の大浦為信が、南部氏の津軽支配の拠点の石川城を攻め、実父石川高信が自害した(異説あり)。また、天正4年(1576)、正室の晴政の長女が早世し、身の危険を感じた信直は、晴政の養嗣子の座を辞退し田子城に引き籠もった。

これは南部氏家臣団をも巻き込んだ対立になり、北信愛や八戸政栄、南長義、桜庭光安らは信直を支持し、信直は刺客の脅威から逃れるため、北信愛の剣吉城や八戸政栄の根城などを転々とした。晴政は、一族内の有力勢力である九戸氏らと連衡し、信直の勢力と対立を深めていった。

天正10年(1582)、南部晴政が没すると、その子晴継が第二十五代当主を継承したが、晴継は同じ年に没した。これには、信直により暗殺あるいは攻められたとする説や、病死説など様々であるが、真偽のほどは定かではない。

この晴政と晴継の相次ぐ死により、南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。後継者としては、九戸政実の弟で、晴政の二女が嫁いだ九戸実親を推す者と、信直を押す者と二つに割れたが、北信愛らは兵を出し、信直派は強引に信直の後継を通した。

九戸政実はこれに遺恨を抱き、南部家中は二つに割れ、その後の九戸の乱へと続いていくことになる。また、外敵への充分な対処が出来ない中で、津軽地方は大浦為信により切り取られていった。

天正18年、豊臣秀吉は天下統一の仕上げで、小田原攻めを行った。同年1月に、南部氏は津軽へ兵を進めたが、大浦側の抵抗は強く、南部軍は苦戦を強いられていたが、目的を果たせぬまま小田原参陣のため撤退した。しかし南部氏の小田原参陣よりも早い3月に、大浦為信は秀吉と謁見し、既に津軽を所領安堵されており、南部の所領の内、糠部、閉伊、鹿角、久慈、岩手、紫波、そして遠野の7ヶ郡の所領は安堵されたが、津軽は除かれた。

同年7月の秀吉の奥州遠征の際には、浅野長政と共に先鋒を務めた。奥州仕置後に、葛西・大崎一揆や和賀・稗貫一揆が起こり、翌年の天正19年(1591)には、九戸政実が叛旗を翻した。

信直はこの九戸の乱を、惣無事令に違背するものとして秀吉に訴え、豊臣秀次を総大将とする6万の中央軍を呼び込むことに成功した。しかし九戸勢は九戸城に立て籠もり頑強に抵抗し、これに手を焼いた中央軍は、奸計を持って開城させ、九戸勢をなで斬りにした。

秀吉の命で九戸城を蒲生氏郷が改修し、信直は三戸城から居城を九戸城に移し福岡城と改名、また津軽3ヶ郡の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡10万石の大名となった。

その後、文禄元年(1592)からの朝鮮出兵に際しては、秀吉に従い1000余名を率いて肥前名護屋城に参陣したが、朝鮮に渡海することはなかった。帰国後は九戸の乱で荒れた領内の基盤固めに専念した。

慶長3年(1598)に秀吉が死去すると徳川家康に接近した。またこの年には盛岡城の築城を開始した。しかしその翌年の慶長4年(1599)10月、その完成を見ることなく、福岡城(九戸城)で病没した。享年54歳だった。

この信直の隣に、後室である慈照院の墓石がある。

信直の正室は、南部氏第二十四代当主である南部晴政の娘で、信直は養嗣子として三戸南部に入ったが、その後晴政に実子が生まれたことにより疎まれ、晴政の手のものに襲撃されたりと、その関係は険悪なものになっていった。

そのような中で、天正4年(1576)、正室の晴政の長女が早世した。この死に関しても様々な説があり、南部利直を生んだ時の産後の肥立ちが悪く亡くなったとするものや、南部信直が殺したとするものなど様々である。

信直は、この正室の死により、晴政の養嗣子の座を辞退し田子城に引き籠もった。慈照院は、この時期頃から信直のそばに上がったと思われる。

慈照院は、南部家家臣で信直の居城のある田子の近くの石亀を領していた泉山古康の娘である。晴政との確執の中で、信直は晴政の娘である正室との間も、気の休まるものではなかったと推測できる。そのような中で慈照院は、身の置き所のなくなった信直を懸命に支えたものと考えられる。

南部氏は、信直の後継となった際の問題や、九戸の乱、及び津軽の分離独立などから、南部氏による正史は、その正統性を主張するために、様々な改竄があったと考えるのが妥当だろう。

慈照院は盛岡南部藩初代藩主の南部利直の生母となっているが、正室だった晴政の娘が生母とする説もある。また、南部晴政、晴継、正室の墓所が不明であり、それは当時の常識からして異常なことであり、信直の晴政に対する激しい憎悪が感じられる。

いずれにしても真実は不明であるが、慈照院はその法名の通り、慈悲の心で信直を照らし包み込み、信直とともに戦国の世を生き、寛永17年(1640)9月、享年86歳で没した。