2013/06/08
昨夜は国道7号線を長躯北上し、能代から国道101号線に入りさらに北上し、「みねはま」という道の駅にお世話になった。この日は、朝一番に「手這坂」に行くことにしていた。手這坂は、北奥羽を旅した江戸時代の紀行家の菅江真澄が「桃源郷」と評した集落だ。
国道101号線から東に4kmほど走ると、大久保岱という比較的大きな農村集落に出た。白神山地の南麓にあたり、美しい山々と朝の光の中で、白神山地からのわずかな傾斜地につくられた棚田が美しい。道端にあった古い解説板によると、「宇治」の姓が多い集落で、昔、京都からこの地に至った方々の子孫が多いとある。
これにも大いに興味をそそられたが、とりあえず置いておき手這坂を目指す。目的地はさらにこの奥である。下調べでは、現在は無人の集落で、「桃源郷」の復活の為に、近くの方々が交代でボランティアで維持しているとあった。恐らくは、この大久保岱の方々が世話をしているのだろう。
林道のような山道に入り、白神山地の山懐に分け入って行く。まさに「山懐」だ。この季節の自然はすばらしい。しかし無責任な旅人はすばらしいで済むが、この地に暮らしを立てる方々は、その自然と格闘しなければならない。特に冬の季節は並み大抵ではないだろう。
少し走るといくらか視界が開け、わずかばかりの山間を開いた田畑がある。藁葺き屋根の古民家が4軒ほどある。季節はずれの桃の花と、満開の藤の花が咲いている。田は田植え前のようで、代掻きが終わり水がはってある。遠くから旅人の目で見ると、日本の原風景ともいえる夢の様な光景だ。
しかし、集落の道を入って行くと、藁葺き屋根にはブルーシートが張られ、家々はかなり傷んでいる。雨、風、雪からこれまでこの集落を守ってきた、そして現在も守ろうとしている苦闘の跡が随所に生々しく見える。古民家の内の一軒は、屋根が破れ、家屋内部も荒れ放題で、崩壊の危機にあるようだ。
大久保岱集落の方に伺った話では、現在、この古民家の内の一軒には若者が一人住み込み、「桃源郷」の復活に苦闘しているらしい。また町もこの地を「桃源郷」として復活し、白神山地へのトレッキング客の宿泊地にできればとも考えているようだ。
昨今の、経済効果だの、リッチな外国人の誘致だの、テーマパークだのの「観光」のあり方には辟易している私にとって、この地の取り組みは大変うれしいことだ。白神山地の美しさを守り、その自然を愛でるために人々が訪れ、その方々の為に桃源郷を復活し、宿と情報を提供する、そこにはリッチな外国人も「経済効果」も必要ないはずだ。
この地の復活に苦労している若者に敬意を表したいと思ったが、時間はあまりに早い。この地の試みが成功することを祈り、朝の光の中の手這坂を後にした。
秋田の八峰町から国道101号線を北上し、青森の鯵ヶ沢に向った。幸いなことに天気は良く、この季節の、窓を一杯に開けての海岸沿いのドライブはすがすがしい。この秋田の八峰から青森の深浦までは、古くから居住する者が少なかったのだろう、人間がつくった歴史の跡は少ないようで、訪問予定の箇所も少なかった。比較的長い距離をゆったりと走った。
途中、「十二湖」の表示を何度か見かけた。私はこれまで十二湖の存在は知らなかった。この地は、岩木山、そして竜飛岬まで続く津軽国定公園の一部だったのだ。「十二湖」は、今回の散策予定箇所には入ってはいなかった。しかし地元の方々が、胸をはって表示板を出しているのだ。行かないわけにはいかない。予定といってもいつものようにあって無いようなものだ。
途中の道路標示にしたがって国道を東に折れ県道を進んだ。天気はすっきりと晴れ渡っている。途中右手に白い岩肌が美しい山体崩壊の跡らしい崖が見える。車を停めシャッターを切った。この地のもう一つの見所で「日本キャニオン」というらしい。その展望所にも寄り、白岩の絶景を堪能した。
道は湖沼群を縫うように走り、「青池」の表示のある駐車場に入った。ここまでの湖沼群は確かに美しかった。しかし、初夏の木々の間に見える風景は、日常に見られる、どこか見慣れた美しさだった。ここから先、青池へは歩いて行かなければならない。どれだけの時間を要するのかもわからず戻ろうかとも考えた。
日常の時間や締め切りに追われる日々の生活が少し頭をもたげた。しかし現地の案内板には、青池だけが他の湖沼とは違い、別の色で塗り分けられている、どうもこの十二湖の中でも特別な存在のようだ。
以前、岩手県の馬仙峡を訪れたとき、展望所の案内板を見かけながら時間に追われて寄ることなく、帰ってきてから調べ、その素晴らしさを見ることなく帰ってきたことをえらく後悔した事を思い出した。歴史散策の期間中だけは、極力、予定に縛られることがないように心がけているのだが、気がつくと予定を気にしている俗物がそこにいる。
靴紐を締めなおし、カメラの電池を確かめ青池に向った。どうやら青池は、湖沼群の最上流になるようで、小川の上流へと道は続いている。遊歩道はしっかりと整備されており、峠道の様なきつい傾斜もなく、森の香りを楽しみながらゆるゆると進む。小さな沢に入り、少し急な木の階段を上ると、そこにはこれまでと全く違う世界があった。
青池は、鬱蒼とした木々に囲まれた薄暗がりのなかに、初夏の木陰の濃い緑を面に映している。しかし木々の合間を通してさす光が当たっている水面だけは、濃いブルーに光っている。いや水面が光っているのではなく、その色は水底から湧き上がるように光っている。水底には朽ちた木が沈んでいるのが見える。ここは恐らく、白神山地からあふれ出た水の湧水地なのだろう。限りなく透明な水が、日の光の青色を閉じ込めているようだ。
旅を続けていると、時折このような非日常の光景に出会うことがある。人はそれを畏れ、その非日常に神仏の姿を見たのかもしれない。人はその畏れをそれぞれの言葉で伝え、そこに伝説が生まれていったのだろう。
この地は白神山地の北西麓だ。湖沼群をたどってこの青池を見た。もしかすると、さらにこの山を分け入れば神仏に出会えるかもしれない、そのような気持ちにすらなった。