2013/06/09
昨日は天気も良く、日も長く、手這坂に始まり千畳敷にいたる津軽国定公園の自然を満喫し、もちろん森山館跡や深浦湊、種里城址などの歴史散策も十分に満喫した。この日は鯵ヶ沢町を探索し、以前残した五所川原の散策箇所を回る予定だった。朝から鯵ヶ沢を数ヶ所回った後にこの鯵ヶ沢館跡を訪れた。
この館跡にたどり着くには多少難儀した。数人の地元の方に尋ねたがわからなかった。しかし地元の方との会話の中で「天童山」の地名を聞き、その天童山こそ館跡だと確信した。「天童」の地名で有名なのは山形の天童市である。そしてその地名の起こりは、南北朝期の終わり頃の北畠天童丸に由来する。
南朝の衰退で、天童丸は津軽に去ったという伝承は知っていた。この「天童」の地名は一般的なものとは異なり、恐らくはその天童丸に関わるものだということは容易に推測され、失ったものを掘り出したような興奮を覚えながら車を進めた。
館跡は小さな公園になっており、上り口は虎口に見えなくもない。頂上に近いところに小さな駐車スペースがあり、館跡の公園らしく模擬冠木門がある。頂上に上ると、二段の平場があり、最上段からは鯵ヶ沢の港と、先に広がる日本海が一望できる。
頂上の平場には、江戸時代風の復元常夜灯が建てられている。この鯵ヶ沢は、江戸時代に北前船の寄港地として、津軽藩の主要な湊として栄えた地だ。港を足下に、日本海を広く見渡せるこの地は、この港の日和見の地で、恐らくは実際に常夜灯もあったろう。地元の方々にとってのこの地は、館跡としてよりも、今に続く日和見の地としての印象の方が強いのだろう。
しかし、私にとってはこの地はやはり天童丸の館跡だ。天童からこの地に至った北畠天童丸は、この地からどのような思いで日本海を眺めたのだろうか。その後天童丸はどうなったのだろうか、子孫はどうなのだろう、その後のこの地での南北争乱は?…
朝の心地よい風の中で、美しい日本海を眺めながら、しばし果てしない思いをめぐらしながら、五所川原市に向かった。この地で大浦為信の津軽統一に最後まで抵抗した朝日氏の館跡を訪れたかった。
五所川原市では最初に旧金木町の金木館跡を探した。旧金木町の中心街のある丘陵西端部に「高屋敷」と呼ばれる場所があり、これが金木館跡であると伝えられる。朝日氏は、藤原氏庶流とされ、南北朝期の康永3年(1344)、南朝方の藤原藤房が津軽に入り、金木館に居したとされる。
金木館には、天正年間(1573~92)には、対馬右衛門太郎と名乗る豪族が居住していたといわれ、 天正16年(1588)、津軽統一をめざす大浦為信が朝日氏を攻めた際は大浦方につき、現在に残る太宰治の実家の津島氏はその流れらしい。
館があったとされる「高屋敷」周辺を歩き回ったが、現在は住宅地となっており、南に通る道は、かつての堀の跡であるとされるが、遺構らしいものは残っていない。時間も午後3時を過ぎた。やむを得ず、飯詰城に向かった。
飯詰城は 藤原藤房の子の景房が築いた城で、以降、大浦為信に滅ぼされるまで、この飯詰城を拠点とし、朝日氏を名乗ったと云う。朝日氏は南朝方の雄の南部氏の庇護を受けて、浪岡に入った北畠氏とともに勢力を拡大し、この地を支配した。
飯詰城は、比高30mほどの丘に築かれた平山城で、北麓流れる糠塚川を自然の堀とし、東西に伸びる丘陵上に、西郭、主郭、東郭が築かれており、 各郭は空堀で区画されている。
朝日氏は同じ南朝方だった浪岡の北畠氏の与力として行動をともにした。しかしその後、津軽統一をめざし大浦為信がこの地に勢力を伸ばし、天正6年(1578)には浪岡北畠氏は滅亡した。それでも朝日氏は大浦勢に徹底抗戦し、朝日勢は領民や蝦夷軍とともに数度の合戦で大浦氏を退けた。
しかし結局、天正16年(1588)、大浦勢の猛攻を受け、朝日勢は玉砕を覚悟して、老人女子供を逃し、残余の270余名が籠城し抵抗したがあえなく落城し、城主の朝日行安は自害し朝日氏は滅亡した。この飯詰城が落城した事により、大浦為信の津軽統一は完成した。
毎年落城の日が近づくと、城跡周辺では、鎧武者や女の亡霊が現れたり、日照りや長雨などの天候不順に見舞われるなど、怪異な現象が起きるとも伝えられ、朝日一族の祟りと噂されたという。