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秋田県能代市の長慶寺は、長慶天皇の伝説に関わる、幻の金山「長慶金山」の麓にあったとされる寺である。長慶金山は、田代岳より左奥にある長慶森から南に分かれた長慶前山を中心とした鉱山といわれている。この長慶寺はその田代から移ってきたと伝えられている。

田代岳山頂には田代山神社が鎮座している。津軽の猟師彦之丞が、獲物を追って田代岳山頂まで来たところ、そこで水田を発見した。呆然としているところに白衣白髭白髪の翁が現れ、この翁を白髭大神として祀ったのが、田代山神社の始まりと伝えられる。田代岳山頂付近には、「雲上のアラスカ庭園」と呼ばれる高層湿原が形成され、120を超す数の池塘が散在し高山植物の生息地であることから、その美しさから田代山信仰は始まったようだ。

仁寿2年(852)、慈覚大師が再興し、建武元年(1334)、陸奥兼出羽守の北畠顯家が、山麓の長慶金山を開発稼行し、田代山神社を再建、宝暦10年(1760)、佐竹藩鉱山取締の伊多波武助が金山を再開発し、荒廃していた社殿を再建した。

この伝説の中の北畠顕家は、建武5年(1338)に摂津の石津の戦いで討ち死にしており、北畠氏が津軽の浪岡を拠点としたのは、顕家の子の顕成の時代の文中2年(1373)であり、さらに長慶天皇が津軽に下ったのは弘和3年(1383)に後亀山天皇に譲位した以降と考えられ、建武元年(1334)に北畠顯家が長慶金山を開いたとするのには無理がある。

この長慶金山の伝説の地の長慶森を北に4里ほど下りきった相馬紙漉沢の里に、長慶天皇御陵墓とする地があり、長慶金山の伝説はそこから派生したものかもしれない。

長慶金山の発見については次のような伝説が伝えられている。

昔、雨の日一人のおばあさんが、山菜のミズを背負って、町で売り歩いていた。しかしいくら歩き回っても売れなかった。それでもとある家の前を通りかかるとその家の親方が奥から出てきて「うまそうなミズだな」と、手にとって見た。するとそのミズの根っコにキラキラ光るものがあり、よく見るとそれは砂金の粒だった。

その親方は、ミズを全部買い取り、それを採った場所の道や沢や目印などを事細かに聞き出した。次の日この親方は手下を集めて、聞いた場所に向かい、そこに何日も暮らせる小屋を造り、坑道を掘り金を探しはじめた。

思った通り、じきに金は見つかり始め、何十日も夢中で掘り続け、何年も遊んで暮らせるだけの砂金がたまった。しかしある晩、手下の一人が、みんなの砂金を袋に詰めて逃げようとしたのが見つかり、なぐり殺されてしまった。

こんなことがあったため、親方の眼はとてもきびしくなった。親方は、モタモタしていたら、折角掘り出した砂金はみんな持ち逃げされるかもしれないと思い始めた。親方は、ある夜、みんなが寝静まるのを待って小屋の出口を塞ぎ、小屋に火をかけた。手下たちは火をつけた親方への恨みを口にしながらみんな焼け死んだ。

親方は、耳に残る手下たちの恨みの言葉を振り切るように、たまった砂金をまとめ背負い「ざまあ見ろ、これで砂金は、全部、俺のものだ」と眼をギラつかせながら山を下りはじめた。途中、深い谷川に面した道を通ろうとしたが、欲をかき砂金をすべて背負ったために、通り抜けるには道は狭かった。

背負った荷物の半分を置いていけば通り抜けることができるとも思ったが、手下の生き残りが追いかけてくるような気がして、親方はそのまま深い谷川の道を崖にすがるようにして進み始めた。しかし途中、大きな岩が突き出ているところで足を滑らせ、背負っていた砂金もろとも、深い谷川に落ちてしまった。

現在も、長慶金山は伝説の中にあるが、江戸時代には実在していたようだ。この地は秋田藩領で、秋田藩を取り仕切っていた佐竹氏は、林業などの他に、鉱山の開発事業にもかなり力をいれており、長慶金山からは銀や金を掘り当てることに成功し、当時ではかなりの繁栄を誇っっていたようだ。

しかし佐竹氏は鉱山のいくつかを幕府には報告せず、藩内のみで利用していた。そのことが幕府にばれてしまいそうになった佐竹氏は、罰せられることを恐れて長慶金山を閉山することにした。鉱夫らの口から幕府にうそがばれてしまうことを恐れた秋田藩は、そこで働いていた人達約200人前後を坑道に生き埋めにしたとされる。

その後、長慶金山があったとされる場所は不明となり、長い歴史の中で多くの人達が何度か調査をしているが、鉱山跡地は発見されていない。